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■25751 / inTopicNo.97)  Re[64]: ある、と、主語と述語への分別
  
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/22(Mon) 00:17:42)
    2022/08/22(Mon) 07:56:13 編集(投稿者)
    2022/08/22(Mon) 07:01:30 編集(投稿者)

    No25671に返信(pipitさんの記事)
    少し前の記事への返信になります。そして(いつものように)完全な私的解釈です。

    > 【双頭の怪物(ディクラノイ)の誕生】
    > そもそもの発端、それはやはりあのパルメニデスの深刻な問題提起にある。
    > ただ、ある、といえるのみ---これがパルメニデスのいう大いなる真理だった。この伝でゆくなら、まさに判断という知の手段こそが邪道の始まりである。
    > なぜなら、それは一にしてまったき「ある」に、主語と述語という区別を、すなわち亀裂を設けてしまうことになるから。
    > つまり両者の関係をコプラ(=繋辞)において「---である」とか「---でない」とか言明をする以前に、そもそも一方が他方でないという否定をその「ある」に介入させ、肝腎かなめの「ある」がすでに〈ない〉にまみれていた、という不始末を宿すからである。
    > 二つに分けることそれ自体が「ある」全体が連続的である((ク)シュネケス・パーン・エスティン)という永遠の真理をはなから否定している。しかしこれは、すでに分たれていたものを繋げないと語る事後の否定ではなく、むしろ事前の、いわば法外の否定であろう。

    「これはコーヒーカップである」と言うとき主語-述語に分裂しているのであれば、「これ」と「(これであるべき)コーヒーカップ」の間に断絶が生じており、『そもそも一方が他方でないという否定をその「ある」に介入させ、肝腎かなめの「ある」がすでに〈ない〉にまみれていた、という不始末を宿す』

    ところで石川求さんも、パルメニデスは「ある」に主語を前提しない語りをしたという解釈ですね。
    ここは日本語のみ話者の自分には、どう捉えていいか分からないな。動詞の語形によって人称が区別される時点で、主-術の分裂が生じているのかどうか。しかし仮にそうだとしたら「ただ、ある、といえるのみ」ということは、どのように表現するのか。

    いずれにしても納富先生の『現代の解釈者が「万物、在るもの、一者、それ」といった候補を示してきたが・・』というのは三人称単数ということが分かっても、主語が特定できないゆえに、そのようになるのでしょうが…。
    その上で、納富先生はそういった解釈者の行為に価値を認めていないように読みました。

    > 分けてはならぬ---この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、二つ以上の多を背理とみなした。二つを認めるやいなや、その間を三つと数えなければならず、これが限りなく続いてしまうからである。「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。あのアキレスと亀がそうであったように、(分かたれた)二者がいくら無限に接近しようとも、やはりその間には無限の隔たりを考えることができる。ここにあっては、限りなく近づくことが、じつに限りなく遠ざかることなのだ。
    >  こんなことは不条理ではないか。判断における主語と述語の多、すなわちそれらの「間」にしても同じである。
    > ならば、パルメニデスの禁令に背いて双頭の判断を知の道具にしようとする者は、いやが上にもこの無理難題を、パルメニデスの表現では「唖然の(テテーポテス)」あるいは「怪物的」論理という疚しさを、自らに引き受ける覚悟がなければならない。

    仏教だと言語同断とか無分別という方向があるかもしれないが、ギリシア哲学とかの方面の人たちは言語で徹底的に分析しないと気が済まないと思われ、主-術に分け判断すること自体に背理があると言われようとも、

    >  つまりプラトンは(彼もまた)判断という知の形式を甘受する。分かつことで生み落とされる主/述の「多」の委細を承知の上で、パルメニデスが告発してやまぬ「背理」を、ある規定が無限の否定を背負うこととして、しかと引き取ったのである。
    > (略)』

引用返信/返信 削除キー/
■25783 / inTopicNo.98)  Re[72]:ある、と、主語と述語への分別
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/22(Mon) 20:08:20)
    ■25751、おくったがわさん、ありがとございま〜す。

    >「これはコーヒーカップである」<
    「主語と述語」、なんかいい例を出してくれて。

    「これ」が主語で、「コーヒーカップである」が述語ね。

    目の前にカップがあって、このカップが「これ」とするよね。

    「これ(カップ)」は「コーヒーが入ってるカップ」じゃない場合もあるよね。
    紅茶が入っていれば「ティーカップ」?日本茶が入っていれば?ん?なんて言うの?わかんないけど(少なくともコーヒーカップとは言わないよね)。そのカップは入っているものによって名が変わるよね。

    じゃ、中に入ってるものを抜きにして、
    「これはカップである」ってして見たときも、けっきょく同じなのね。

    もっとなくしちゃうと、

    〈これなあに?〉

    「これは○○である」以前の。

    「AはBである」
    わたしこれ、主語と述語って見てないのね。

    「A」と「B」は「である」でつながってる。
    もし、「A」と「B」が融合ないし合致するとしたなら、
    「Aである」か「Bである」っていう表現でしかなくなるんじゃないかしら?

    こういう意味で、求さんの
    >(分かたれた)二者がいくら無限に接近しようとも、やはりその間には無限の隔たりを考えることができる。ここにあっては、限りなく近づくことが、じつに限りなく遠ざかることなのだ<
    にはそうなのかな〜ってわたし思ってる。

    だから「AはBである」においては、「A」と「B」は別もの、ってなるとおもうんだけけど、わたしこれを「亀裂」って言うより「裂開(開け)」って見てる(もっとも「亀裂」を「明け」という意味なんだったら同じことを言ってることになるだけど)。

    「B」が「A」の〈開け〉になるっていうこと。

    何言ってるかわかんないかもしれないけど、たとえば、

    「白鳥(A)は白い(B)」、これは「明け」じゃななくて、
    「三角形(A)の内角の和は二直角(B)」、これが「明け」っていうこと。

    > 分けてはならぬ---この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、二つ以上の多を背理とみなした。二つを認めるやいなや、その間を三つと数えなければならず、これが限りなく続いてしまうからである。「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。<

    この<分けてはならぬ>の<分け>っていうのが誰の分かんないけど、
    これについては、いまのところ横に置いとく。

    <その間を三つと数える>なんだけど、この三つをどう数えるかが問題よね。

    〈ある〉〈か〉〈ない〉の三つ。
    〈ある〉〈と〉〈ない〉の三つ。
    の三つがいまのところわたしのなかでは浮かんでるんだけど。
    「間」っていうのは、〈か〉、〈と〉のことね。























引用返信/返信 削除キー/
■25797 / inTopicNo.99)  Re[73]: :ある、と、主語と述語への分別
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/23(Tue) 11:06:23)
    No25783に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    おはようございます。

    > 「AはBである」
    > わたしこれ、主語と述語って見てないのね。
    >
    > 「A」と「B」は「である」でつながってる。
    > もし、「A」と「B」が融合ないし合致するとしたなら、
    > 「Aである」か「Bである」っていう表現でしかなくなるんじゃないかしら?
    >
    > こういう意味で、求さんの
    > >(分かたれた)二者がいくら無限に接近しようとも、やはりその間には無限の隔たりを考えることができる。ここにあっては、限りなく近づくことが、じつに限りなく遠ざかることなのだ<
    > にはそうなのかな〜ってわたし思ってる。

    最初難しかったけれど、ここまで分かった(つもり

    > だから「AはBである」においては、「A」と「B」は別もの、ってなるとおもうんだけけど、わたしこれを「亀裂」って言うより「裂開(開け)」って見てる(もっとも「亀裂」を「明け」という意味なんだったら同じことを言ってることになるだけど)。

    裂開は分からないけど、現象学?
    亀裂はおそらく、もともと一つであるものにひびが入って分かれていく感じをイメージしてる。

    > 「B」が「A」の〈開け〉になるっていうこと。
    >
    > 何言ってるかわかんないかもしれないけど、たとえば、

    たしかにわからない。開いて出てくる感じ?

    > 「白鳥(A)は白い(B)」、これは「明け」じゃななくて、
    > 「三角形(A)の内角の和は二直角(B)」、これが「明け」っていうこと。

    すごく興味があるので、その違いをもう少し説明おねがいします。
    他の例でもいいです。


    > <その間を三つと数える>なんだけど、この三つをどう数えるかが問題よね。
    >
    > 〈ある〉〈か〉〈ない〉の三つ。
    > 〈ある〉〈と〉〈ない〉の三つ。
    > の三つがいまのところわたしのなかでは浮かんでるんだけど。
    > 「間」っていうのは、〈か〉、〈と〉のことね。

    〈ある〉〈と〉〈ない〉の三つ 
    とすると、
    <ある> と <と> の間ができる <と> と <ない>の間もできる。そうやって無限に<間>ができる。
    そのままのことを言っているかどうかは分かりませんが。近いことを言ってる気はする。。
引用返信/返信 削除キー/
■25801 / inTopicNo.100)  Re[74]: :ある、と、主語と述語への分別
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/23(Tue) 19:01:24)
    おくったがわさん、こんばんは。

    最初に、「明け」じゃなくて、「開け」です、訂正ね。

    No25783、わたし、どうしてあのようなことを言ったのか、ちょっと振り返って見ました。

    「問いかけと直観」のなかに次のようなのがあります。

    滝沢静雄/木田元共訳(TK)
    *******
    本質についても事実についても、最も望ましいのは、論じようとする存在を外から眺める代わりに、その中に身を置くことであり、あるいは同じことであるが、存在をわれわれの生活の織物の中に置き直し、私の身体の裂開にも似た存在の裂開(dehiscence)−―それが存在を存在自身に開かしめ、またわれわれを存在に開かしめるのであり、そして本質が問題になる場合には、それは、語りまた考えることの裂開となるのだ――に立ち会うことである。
    (dehiscenceの最初のeの上には ‘ がついてます)
    *******
    山中元訳(Y)
    *******
    事実につても本質についても、重要なのは、問題としている存在を外部から眺めるのではなく、その内側に身を置くことであり、結局は同じことだが、その存在をわたしたちの生の織り目のうちに置き直し、その〈開け〉に内側から立ち会うことである。これはわたしたちの身体の〈開け〉に似たものであり、存在を自らに開き、わたしたちを存在に開くものである。本質にかかわりながら、存在を自らに開き、わたしたちを存在に開くものである。本質にかかわりながら、話すことと思考することの〈開け〉なのである。
    *******

    (ここにある【存在を外部から眺めるのではなく、その中に身を置くこと】、これ、現象学的手法で、キモだとわたし見てる。)

    わたし最初「裂開」っていうのどういうのかな〜って思ってたんだけど、山中さんので「開け」って訳されててなんか分かった感じ。あとTKのなかには「開示性」とも訳されてるみたい。


    ここでちょっと現象学のを。
    ハイデガーの『存在と時間』のなかに書いてあったんだけど、

    現象学でいう「ファイノメノン」⇒「現象」は、「おのれを示す当のもの」。

    「現象学」は、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせるということ」。

    のようです。

    「おのれ自身の方から見えるようにさせる」これを「開示」(裂開、開け)、ってわたし見てる。
    あ、これ、わたしの勝手な結びつけだからね。

    で、おたずねの、

    <「白鳥(A)は白い(B)」、これは「開け」じゃななくて>
    については、主語の「白鳥」の意味のなかにはすでに「白い」が含まれてるよね、だから述語は新たなことは言ってない、って見て、「開けじゃない」、主語の「白鳥」を開示してない、って思ったのかも。
    他方、
    <「三角形(A)の内角の和は二直角(B)」、これが「開け」っていうこと>
    あ、これも間違ってた、ごめん。主語は「三角形の内角の和」でした。
    主語の「三角形」「内角」「内角の和」のどこを見ても「二直角」という術語は出てきてないよね(もっとも、「三角形の内角の和は二直角である」ということを“すでに知ってる“人にとってはこういうふうに見るのは変に思われるかもしれないけど)。こういうふうに、主語にまったく新しい意味が付け加えられてるのを「開け」っていうのかな〜ってわたし思ったのかも。

    あ、あと、
    > 分けてはならぬ---この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、…‥「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。<
    っていうの、この「間」、わたしのから見ると〈と〉の方のような気がする。

    わたし、メルポンは「間」(関係性)を見えるようにしようとしている気がしてる。

    ちなみに、「〈ある〉か〈ない〉かのどちらかである」これを論理学(導出学)では「排中律」っていうみたい。そしてこれを認めてる。
    間違っていたら、ごめんだけど。



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■25802 / inTopicNo.101)   哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/23(Tue) 20:20:10)
    もし、「哲学」っていうのが、根源を探究することだとしたら、

    「フィロソフィア」っていう〈知ることを欲する〉に立ち返るのがいいのかもしれない。

    現象学はそう言ってるような気がしてる、わたしのばあい。

    ノエマの世界だけで考えるんじゃなくてね。
引用返信/返信 削除キー/

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