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No37491 の記事


■37491 / )  Re[60]: つれづれなるままに 14
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/14(Fri) 19:51:41)
    でね、
    No37490の(q)に入る前に、
    「乳幼の初めの頃は、〈(私の)自〉は、まだ〈(私の)体〉があることに気づいていない」
    ってわたし見るようになったところをラカンの鏡像段階、
    No30710
    のなかから抜き出して見ると、

    (2)
    〔生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。〕
    〔このような発達過程をフランスの精神分析医、ジャック・ラカンは鏡像段階と名付けた。〕                                                           
    (3)-A
    〔パンジーであれば、鏡に映った自分の姿を見ても、ひとたびその鏡像が生きたものではないということを確かめさえすれば、それで事足れりとなるけれど、人間の子供はそうではない。ラカンは、幼児が「ああそうか体験 Aha-Erlebnis」の際の輝くような表情とともに自分の姿をそれと認知するのだと言う。そして、幼児はこの像に対し、精神分析学で言うところの「同一視 identification」を行ない、これによって彼の内には決定的な変容が生じてくることになるだろう。〕                                                    
    (3)-B
    〔鏡とともに、幼児はまず、自分自身の視像があること、また、ひいては自分自身の統一像があることを学び、みずからが内受容性の側面だけではなく外面をも持っていることを知るようになる。〕
    (6)
    〔幼児は、いまだ神経系が未発達であるため、自己の「身体的統一性」を獲得していない。つまり、自分が一個の身体であるという自覚がない。……そこで、幼児は、鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。〕
    (7)
    〔幼児は鏡像によって、初めて自己の全体像をつくりあげるようになる。〕

    のようなところから。

    ラカンの鏡像段階のをわたしなりに簡単に見ると、
    ひとまず、〈乳幼の頃〉を、生後6ヶ月から18ヶ月の頃、ってしとくことにするよ。
    生後5ヵ月ぐらいから味・臭・聴・視の感覚が完成するみたいだから、それ以降のしばらくの間を、〈乳幼初めの頃〉って言うことにするね。
    で、
    乳幼初めの頃は、
    ・(a) 〈(私の)自〉は、〈(私の)体〉があることに気づいてない。
    ・(b) 「私の」と「他者の」の区別がなく、自他未分化、自他癒合の状態。
    って見てるんじゃないかしら?って。

    ・(b)から、どのようにして「私の」と「他者の」の区別ができてくるのか、について、現象学のから、わたし、
    No37456の@〜Eのようにして見てるところね。

    ・(a)からどのように〈(私の)自+体〉が出来てくるのか、について、ラカンのから、わたしの見方で言うと、

    (L-a)乳幼初めの頃は、〈(私の)自〉は、〈(私の)体〉があることに気づいてないんだけど、〈(私の)自〉が、鏡に映った〈(私の)体〉を見たとき、「ああそうか!」って、なにか発見したような喜びを感じ、これによって、〈(私の)自〉と〈(私の)体〉が結びついて、〈(私の)自+体〉が覚知されるようになる。

    みたいになる。

    〔自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。〕、〔ああそうか体験〕、〔「同一視」を行ない〕、〔自分自身の統一像があることを学び〕、〔自己の「身体的統一性」〕〔自分の身体を認識し、自己を同定していく〕、〔幼児は鏡像によって、初めて自己の全体像をつくりあげるようになる〕、のところを(L-a)のように見たのね。

    で、このように見るとき、

    (3)-B〔だが、こうした自身の像は、自己認識を可能にしてくれると同時に、一種の自己疎外をもたらすことにもなるだろう。私は、私によって生きられている(自我の)現実性から引きはがされ、絶えず理想的・虚構的・想像的自我に関わることとなるのである。〕
    (3)-D〔鏡像は、自己疎外や自己の客観化というレベルだけではなく、ひいては他人による私の疎外までも示唆しているわけで、メルロ=ポンティはさらに次のように続けることとなる。そうした直接的な自己の疎外、鏡の中に見える自己によってなされる〈直接的な自己の押収〉は、すでに、自己を見つめる他人によってなされる〈自己の押収〉がどんなものであるかを素描していることになります。〕
    (4)〔自我の同一性は、自我の外部にあり、自我は自己から疎外されている。〕〔自己を他者と同一化することで、自我は自己の同一性を確保する。〕
    (6)〔この鏡とは、まぎれもなく他者のことでもある。つまり、人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)〕
    (7)〔とはいえ、幼児が自分の姿と思っているものは鏡に映し出されたものであり、自己疎外された鏡像にすぎない。この意味で幼児の自我は、鏡像を通してつくられるもので、幼児が自我とみなしているものは、自分自身ではなく、眼前に差し出された鏡像(他者)なのである。この鏡像と根源的な同一視をする幼児にとって、自我とは他者にほかならない。鏡像段階は、こうした対人関係の基本的構造を示したものであるが、幼児の対人関係だけでなく、一般的な対人関係の構造を示すものと理解されている。〕

    って見てるみたい。

    これをわたしのを含めて見て、
    「鏡に映った〈(私の)体〉」は「他者」である、って見てる。だから、幼児が〈(私の)体〉とみなしているものは、〈(私の)体〉ではなく、眼前に差し出された鏡像(他者)なのである。この鏡像と根源的な同一視をする幼児にとって、自我とは他者にほかならない。そして、その他者を〈(私の)体〉ってして見ちゃうことは、〈(私の)自と体〉の疎外をもたらすことにもなるだろう。またこのことは、〈(私の)体〉を“外に置いて見る”という客観化してるとも見れる。そしてこれは、〈(私の)自と体〉を見つめる他人によってなされる〈(私の)自と体〉の押収がどんなものであるかを素描している。
    のように、よせあつめ的にだけどまとめて見たよ。

    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】でメルポンが、
    『私に見えるがままの私の身体は、私の肩の高さから上が欠け、そして触覚筋に触れる対象のところで終わっている。』
    っていっているのを想い出してる。『触覚筋に触れる対象のところ』っていうの、わたしいまだよくわかんないんだけどね。

    ラカンの鏡像段階のをもう一度読み返して見たなかで、ついでにいまのわたしに思われたのを書いて見たんだけどなんか長くなっちゃみたい。

    で、わたしがこれから見ようとしてるのは、(a)ということとして見たなかで、(q)ね。
    超簡単に、ラカンの鏡像段階では、(q)については、「〈(私の)自〉が、鏡に映った〈(私の)体〉を見たときに」って見てるのかな?

    つぎから、現象学ので、
    (q)〈(私の)自〉と〈(私の)体〉が結びついた〈(私の)自+体〉はどのようにして覚知されるの?
    を見てくことにするね。


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