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No32929 の記事


■32929 / )  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/08(Fri) 21:53:30)
    2023/09/09(Sat) 05:33:54 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No32917に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 何か、ややこしくなってきたな(笑)
    > とは言え、重要なので丁寧に考えますね。

    ありがとうございます。私も必要だと思うところを返信させてもらいますが興味がないところはスルーして下さい。
    また抜け落ちている返信箇所があれば遠慮なく指摘して下さい。

    > 大事なんで確認しますね。
    > 〈私〉は五感で捉えられない(知覚できない) → 〈私〉は知覚世界内に存在しない
    > ∽
    >  眼は視覚で捉えられない → 眼は視野(視覚世界)内に存在しない
    > このような類比関係が成り立つだろうということでいいですかね?

    はい。

    > ふむふむ。
    > じゃあ、眠っても、意識を失っても〈私〉はあるってことですか?
    > それともう一つ、座禅あるいは瞑想により、無心の状態、すなわち、いかなる思考も表象も消え去った状態になったとき、〈私〉はどうなるのでしょうか?
    > これについても、「分からない」ってことでしょうか?

    確証があるわけではないですが、おそらく。。。
    睡眠も意識を失っている状態も無心の状態も〈私〉がある(厳密には〈私〉があった)ということは、時間差でもって分かるのだと思います。
    何故なら、覚醒したり、意識が戻ったり、無心の状態から通常の状態に戻った後に、眠っていたのも、意識を失っていたのも、無心の状態にあったのも他の誰でもない〈私〉であったということが分かるからです。

    >>永井氏もウィトゲンシュタインも眼は視野内にはないとしているという点は同意です。
    > そうですね。
    > ウィトゲンシュタインは、これを「T:5.631 思考し表象する主体は存在しない」の説明するモデルとしていると思います。
    > しかし、ウィトゲンシュタインは、けして思考し表象する主体が世界の限界に位置する、とは述べていません。
    > 「思考し表象する主体」を独我論的主体である〈私〉とみなし、それが世界の限界に位置するものであるというのは、いわば永井の勝手な解釈にすぎないと私は思います。

    永井氏がウィトゲンシュタインの眼の図を利用し、永井氏の独在論つまり〈私〉を形象化したということには同意します。
    詳しいレスは後にまとめます。

    > 実は、面白いことに、この永井とよく似たことは、ショーペンハウアーが言ってるんですよ。ハッカーからの孫引きになりますが、以前もたしか引用した文章を再掲します。
    > 「先験的自我は世界の存在のための前提である。このように考えられた認識主観は,単にその感性的直観にすぎない時間と空間の外に存在する。経験の形式と範疇の源泉として,それは「あらゆる経験の前提」である。それは「世界を支えるものであり,現象しているすべてのものにとり,…あまねくゆきわたりつねに前提とされる制約である。」自我は「いっさいを見るがおのれは見えない眼」であり,自我は「全存在の中心」である。」(P.M.Sハッカー『洞察と幻想』59頁)
    > ね?似てると思いませんか?

    似てますね。ただショーペンハウアーが述べているのは万人に共通するところの自我や認識主観のことだと思います。

    >>ちなみにウィトゲンシュタインが「視野はけっしてこのような形をしていない(5.6331)」は二つの解釈ができると考えています。
    >>一つは眼が視野の中にあることの否定、もう一つは視野はマッハ的光景(永井図6)をしてるので、このような客体として描かれた図は視野ではありえないという否定です。
    > 実は、今回、一番驚いたのが、そして同時に腑に落ちない気がしたのが、ここ、特に後者だったんです。
    > というのも、私、前に書いたかどうかわからないんですが、私の永井批判の根本がこのことだからです。再掲しますが、永井はこう述べています。
    > 「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」

    > 図6の側面図など描き得ないというのが、写像理論=picture theoryの根本思想なのに、図5が『論考』の独我論の正しい形象化だと言うなんて、論外であると私は思うんですよ。
    > 根拠を、少し詳しく説明します。
    > 「思考に限界を引くには、我々はその限界の両側を思考できなければならない(したがって、思考不可能なことを思考できなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    > 写像理論によれば、思考することは絵(写生画)を描くこと(描画・モデル化)に等しいので、上の文は次のように解釈できるはずです。
    > 「描画(写像・モデル化)に限界を引くには、我々はその限界の両側の絵を描けなければならない(したがって、描画不可能なことを絵に描くことができなければならないことになる)」(『論考』序文より)
    > もちろん、そんなことは不可能だから、言語において限界を引く、ということです。

    > にもかかわらず、永井の図5は、まさに思考し得ないはずの思考の限界=境界とその両側、そして思考し得ぬ独我論的私までを図の中に描いてしまっているわけです。
    > もし、この図5が独我論の正しい形象化(モデル化)なのであれば、独我論は語り得る(絵に描き得る)ことになってしまいます。
    > つまり、思考し得ぬことが思考し得ること、すなわち不可能なことが可能になってしまうわけですね。
    > しかし、言うまでもなくそれは不可能。
    > よって、図5は『論考』の独我論の正しい形象化ではありえない。

    > というのが私の見解です。
    > **************
    > 【編集追加】
    > 図6あるいはマッハ的光景は、私(自分)の視野を正しく描いたものである。
    > もし図5もまた私の視野を正しく描いたものであるのなら、私は自分の視野の内と外の両側をともに眺め得る視点に立つことが可能であることになる。
    > だが、そんなことは不可能である。
    > ******************
    > 腑に落ちないのは、もしパニチェさんの考えが私と同じようなものなのであれば、
    > 永井の思想に共感することなどありえないはず、と思われることなんですね。
    > ところが実際には、確かによく似たことを言ってらっしゃるようにも思えますしね。
    > このへん、どう考えていらっしゃるのでしょうか?

    > ちょっと調子に乗って長々少し細かいことを述べたので、いちいちのコメントは難しいかもしれませんし、少なくとも一つだけ、質問に答えていただきたく思います。
    > 質問:「視野はもちろん図6のような形をしている。そして図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている、と言ってよいはずである。」
    > という永井の発言に、パニチェさんは同意されますか、されませんか?

    以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。

    形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。

    まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。
    それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。

    では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか?
    これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。

    客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。
    「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか?
    だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。
    まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。

    > >>****************
    >>開闢というのは時間的な開闢ではなく空間的な開闢という意味です。
    >>そこから世界が開けているという意味での開闢です。
    > なるほど。
    > では、<私>を「世界開闢の特異点」と言うとき、いったいどういうモデルを念頭においているんでしょうか?
    > 永井の図5のようなモデルでしょうか?

    すみません、ここちょっと言葉尻を足らえての返信になりますがご容赦下さい。

    〈私〉はモデルではないんですね。そのまま、今ここにあるままの事実なんです。
    で、形象化すれば図5にはなりますが、そもそも客体化した時点で万人に共通する自我や認識主観になり下がって(変質して)元々の〈私〉ではなくなります。
    これは言語化による「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」と同じです。

    ちなみに私が〈私〉を「世界開闢の特異点」という表現を用いたのは、ビッグバン宇宙論に登場する特異点と多々共通するところがあったからです。

    世界のどこにもない唯一無二であり、世界の開闢地点であり、物理の特異点は「大きさがゼロで密度無限大のため物理法則が通用しない点」であるのに対して。〈私〉の特異点はNo32693 で投稿した通り「科学(唯物論)の対象になりえない点」であること等々から特異点という表現を用いました。

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