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■31787 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。49
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/07/16(Sun) 07:13:21)
    トピ主:pipitさん



    引き続きよろしくお願いします。


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■31807 / inTopicNo.2)  Re[1]: 純粋理性批判を読んでみる。49
□投稿者/ pipit -(2023/07/17(Mon) 10:15:50)
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■31809 / inTopicNo.3)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/07/17(Mon) 10:29:38)
    2023/07/17(Mon) 10:31:09 編集(投稿者)

    みなさまおはようございまーす( ^ω^ )

    うましかさんの記事
    No31804 を読んで、中島義道先生の『カントの読み方』を思い出して、p77あたりの箇所だけ読み返しました。

    (いろいろ勘違いしてるかもだけど)なるほどなーとおもしろかったです。

    うましかさんの記事を再度読んで、
    最初の世界は、◯◯ちゃんだったのかもなーと、自分の過去に想いを馳せてみました。
    やがて、◯◯ちゃんはわたし(皮袋のある一つ)である。→わたしは◯◯ちゃんである。

    ちょうど悪魔ちゃんが最近No31777などで考察されてる話題がとても参考になりそうなので、読むのにチャレンジしては挫折して帰ってくるpipitなのでしたー。
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■31811 / inTopicNo.4)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/07/17(Mon) 12:01:58)
    2023/07/17(Mon) 12:11:00 編集(投稿者)

    おはようございます〜

    暑いですね〜(´;ω;`)ウッ…

    No.31809(pipitさん)

    No31804 を読んで、中島義道先生の『カントの読み方』を思い出して、p77あたりの箇所だけ読み返しました。

    pipitさん、すごいなー
    つまみ食い好きで、どんどん忘れてしまう私とは大違いです(;・∀・)

    上の紹介を読んで中島本をアマゾンで注文しようとおもったけど、もしやとおもって段ボールを調べてみたら、コレ持ってました(;´Д`A```

    p.77〜 第2章 意識の単なる形式としての私、「†代名詞と固有名詞のあいだ」以降ですね。

    うーん、ちょっと今の私の関心とははずれているけど、参考になります!m(__)m

    「ここで中島義道を少し離れて」、、、(;´・ω・)

    例えば、

    ◇ 高田夏子『名前とアイデンティティ』

    https://www.jrc.sophia.ac.jp/pdf/research/bulletin/ki21/takn.pdf

    ◇ 吉田智世『どこまでも深い、名前の世界』

    http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/student/pdf/i07/P024-030.pdf




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■31812 / inTopicNo.5)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2023/07/17(Mon) 13:23:14)
    2023/07/17(Mon) 13:26:20 編集(投稿者)

    こんにちはー
    めちゃ暑いですねー(*_*)

    No31811
    名前についての論文のご紹介、ありがとうございます!

    どちらもおもしろく、それぞれ自分で気づけてなかった視点に気付かされましたが、
    その中でも吉田智世さんの、「名づけ」という行為には必ず「つける」側と、「つけられる」側が存在する、という冒頭文に、あら、ほんまやーと今更ながら思いました。
    Σ(・□・;)! 

    今読んでる、超越論的演繹論の箇所が難しすぎて、めちゃ進み難いのですが、いろんな方の物事の見方を参考にしながら、読み進めていきたいです
    (´;Д;`)

    書き込みありがとうございまーす(^○^)♪

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■31817 / inTopicNo.6)  Re[5]: 「直観」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/17(Mon) 16:16:36)
    ねえ、pipitさま、

    カントの言う「直観」って、〈知覚されたもの〉っていうことでいいのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■31830 / inTopicNo.7)  Re[6]: 「直観」
□投稿者/ pipit -(2023/07/18(Tue) 20:58:38)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^O^)

    No31817
    > カントの言う「直観」って、〈知覚されたもの〉っていうことでいいのかしら?<

    私もいまだによくわからないから、もう一回考えてみるね。


    No30026

    悪魔ちゃんが、カントの文章をもとに図を書いてくれたものなんだけど、

    No30019

    それでこれが、図の元のカントの文章なんだけど、

    これ見るとさー、

    表象に意識を伴ったのが知覚で、
    知覚の下に主観的知覚と客観的知覚が位置付けられてるよねー。
    それで、主観的知覚=感覚で、
    客観的知覚=直観・概念
    とカントは分類してるよね。

    だから悪魔ちゃんの問いにこの資料から答えるとすれば、

    「カントの言う直観は知覚されたものだけど、カントの言う感覚も概念も知覚されたものとしてるみたい。」

    になるんかなと思いました。

    悪魔ちゃん、ありがとね!

引用返信/返信 削除キー/
■31835 / inTopicNo.8)  純粋理性批判B155
□投稿者/ pipit -(2023/07/19(Wed) 08:53:54)
    みなさまこんにちは。
    猛烈にわからないので、カントごっこしてつぶやいてみます。
    (ドイツ語原文をDeepLで日訳&英訳してみます。)

    (´-`).。oO Wie aber das Ich, der ich denke, von dem Ich, das sich selbst anschaut, unterschieden (indem ich mir noch andere Anschauungsart wenigstens als moglich vorstellen kann) und doch mit diesem letzteren als dasselbe Subjekt einerlei sei, wie ich also sagen konne:

    (DeepL日訳)しかし、考える私は、(少なくとも他のものの見方が可能であると想像できるという意味で)自分自身を見る私とは異なり、しかも後者と同じ主体である:

    (DeepL英訳)But how the I, who thinks, can be distinguished from the I, which looks at itself (in that I can at least imagine other ways of looking at things as possible) and yet be the same as the latter as the same subject, how I can therefore say:
    ===========

    (pipit感想)
    知性的存在(考える私)と感性的存在(感じる私)が、どのようにこの『私』という一つの存在に集約されてるのか、みたいな意味の文章なのかなぁ?

    感性能力と知性能力を全く切り離してるんかな、ロボット工学みたいな感じに捉えてるんかな。
    カメラ(感性能力) と 情報処理(知性能力) みたいに。
    カントは判断を知性能力としてるみたいやもんね。

    もうしばらく原文をDeepLで訳していきます。
    読み進めるうちに感想はガラッと変更になるかもです。m(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■31838 / inTopicNo.9)  Re[7]: 「直観」
□投稿者/ pipit -(2023/07/19(Wed) 15:00:30)
    No31830
    知覚によって客体を規定するってかんじのカントの文章あった気がして、検索したらでてきたので、その箇所を再引用させてもらうね。

    =============
    No1980より

    カントによると、
    『すでに指摘したように経験とは、知覚によって客体を認識することである。』
    だそうです。

    『経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。』(中山元先生訳文251)

    知覚から対象が現れるでしょう?
    どこで線引きするかが問題だなぁ。
    今の所の私見だけど、
    感じたものを考えることによって私たちにとっての対象があらわれるということかなぁと。
    それで、知覚、から、対象、に至るまでの間に、《総合》がなされてるのかと。
    その《総合》を成してる働きが、【原則】かなぁ、と、私見を書いてるとき、
    原則についてのカントの記述見つけました。

    『純粋な知性は、あるものが生起するための規則を定める能力であるだけでなく、それ自体が原則の源泉となる。この原則にしたがうことで、わたしたちにとって対象として現れることのできるすべてのものが、必然的に規則にしたがうようになる。』(中山訳文227)

    んー。

    とりあえず、知覚、から、対象へ至る道程、ということをイメージしておきます。

    =============

    上記再引用文を書いた当時は、pipitとしては考えられたものは知覚ではないと思ってたけど、
    No30019で引用されてるカントの文章からすると、考えられたものに意識が伴っていれば「知覚」と言うんかな。
    知らんけど....
    ( ; ; )
引用返信/返信 削除キー/
■31841 / inTopicNo.10)  Re[8]: 「直観」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/19(Wed) 20:09:56)
    No31830、pipitさま、ありがと。

    ふと思ったんね。
    以下はあくまでもわたしの勝手なつね。

    カント、最初のころは、類を表象一般として、そこから考えていって、理念・理性概念(悟性概念から生じる経験の可能性を超える概念)へとたどり着いたみたいに、“考えることをしていた”、それによって“考えられたもの”が出来てきたんだけど、今度はその“考えられたもの”によって、そこから見るようになっていった、みたいな?感じなのかも。
    簡単にいっちゃうと、
    No30026のように、
    “考えることをしていた”んだけど、しばらくすると、逆になっていった?
    それを図にして見たのを添付しまーす。

    この図、ちょっと説明すると、まず、「悟性」があるのね。そのうちにその源泉を有するかぎりの「純粋概念」があって、それから見て対比されるのは「経験的概念」ね。「純粋概念」から見た「概念」になって、それから見て対比されるのは「直観」。「純粋概念」っていう「概念」から見た「認識」は「客観的知覚」と見られるようになった「知覚」・・・・・
    こんなふうになっていったんじゃないかしら?って。

    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】の訳注によると、
    〔カントにとっては、〈空間〉と〈時間〉とは人間精神の主観的構造に属するものであり、感性(=対象受容の能力)が働く場合の基本形式である。したがって、それらは認識主観を離れた〈物自体〉の性質や関係ではない。そこで空間、時間は、われわれに〈経験〉されるいっさいのもの(=現象)に関しては客観的であり、空間、時間のなかに存在しないような対象は、経験のなかにないことになる。その意味で、それらは〈経験的実在性〉を持つと言われる。が、他方、それらがわれわれの感性を離れて実在するものではないとすれば、経験を超えた実在性は持たないわけであり、そのことが空間・時間の〈超越論的観念性〉と言われるのである。・・・・〕
    ってある。
    カントは“考えてることをしていた”なかで、「感性が働く場合の基本的形式は時間・空間である」っていう判断に達した。で、カントによって考えられた「それ」によって、いつしか、「理性的に、感性は、時間・空間によって、働いていなければならない」、みたいになっちゃった、みたいな感じ?

    No31838
    >カントによると、『すでに指摘したように経験とは、知覚によって客体を認識することである。』だそうです。<
    わたしもそう見てる。
    わたしの言い方では、
    〈知覚は経験のうちで働いている。知覚されたものは私の内で構成された客体。〉
    こんな感じになるかな。



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引用返信/返信 削除キー/
■31843 / inTopicNo.11)  Re[9]: 「直観」
□投稿者/ pipit -(2023/07/19(Wed) 22:58:47)
    2023/07/19(Wed) 23:24:01 編集(投稿者)

    No31841
    悪魔ちゃんの考えてること教えてくれてとても嬉しいよ、ありがとう!

    > カント、最初のころは、類を表象一般として、そこから考えていって、理念・理性概念(悟性概念から生じる経験の可能性を超える概念)へとたどり着いたみたいに、“考えることをしていた”、それによって“考えられたもの”が出来てきたんだけど、今度はその“考えられたもの”によって、そこから見るようになっていった、みたいな?感じなのかも。
    > 簡単にいっちゃうと、
    > No30026のように、
    > “考えることをしていた”んだけど、しばらくすると、逆になっていった?
    > それを図にして見たのを添付しまーす。<

    考えられた理念から、逆に見解作っちゃったってこと??

    > この図、ちょっと説明すると、まず、「悟性」があるのね。そのうちにその源泉を有するかぎりの「純粋概念」があって、それから見て対比されるのは「経験的概念」ね。<

    「理念」の矢印が、どうして「経験」に向かってるの??
    超越論的 が 経験を成り立たせてる という願望を表す矢印?

    >「純粋概念」から見た「概念」になって、それから見て対比されるのは「直観」。<

    「直観」を悟性に従属させたみたいな?


    >「純粋概念」っていう「概念」から見た「認識」は「客観的知覚」と見られるようになった「知覚」・・・・・
    > こんなふうになっていったんじゃないかしら?って。<

    もしこうだと、カントの説は大分、感性無視気味の頭でっかちな雰囲気にみえるね
    (^◇^;)
    カント哲学、わたしは多分大好きなんだけど、それでもここまでややこしいと二律背反的な気持ちが出てくるよ

    >カントは“考えてることをしていた”なかで、「感性が働く場合の基本的形式は時間・空間である」っていう判断に達した。で、カントによって考えられた「それ」によって、いつしか、「理性的に、感性は、時間・空間によって、働いていなければならない」、みたいになっちゃった、みたいな感じ?<

    理性的に、っていうのがカントっぽいよね
    確かに第二版のpipitが今読んでるところは、知性優先的な記述になってる気もするけど、カントのことやからこれから先どうなるかわからないなー(・・;)

    > No31838
    > >カントによると、『すでに指摘したように経験とは、知覚によって客体を認識することである。』だそうです。<
    > わたしもそう見てる。
    > わたしの言い方では、
    > 〈知覚は経験のうちで働いている。知覚されたものは私の内で構成された客体。〉
    > こんな感じになるかな。<

    あーニュアンス的には私もそう思うけど、言葉の使い方(定義)の問題になるのかなと思うんだけど、
    カントは、純粋理性批判の解説本みたいな本で、経験判断と知覚判断という対比的な判断2種を書いてて、客体の認識は経験判断によるものとして、知覚判断は客観的認識の用件を満たしてないものとしてるんだよね。

    それぞれの哲学者や、現代に生きる私たち、悪魔ちゃんとpipitの間でも、言葉の問題は難しさがあるんだろうね。

    いつもありがとうね!おやすみなさい(^_^)

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■31849 / inTopicNo.12)  Re[10]: 「直観」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/20(Thu) 20:16:48)
    ねえ、pipitさまって、「理性」に憧れてるの?
    ふとわたし感じたんだけど。

    最初に訂正しとくね。
    >「理性的に、感性は、時間・空間によって、働いていなければならない」<
    を、
    「理性的に、感性は、時間・空間によって、働いているはずだ」
    に。

    >「理念」の矢印が、どうして「経験」に向かってるの??超越論的 が 経験を成り立たせてる という願望を表す矢印?<
    うん、そう。カントが批判していたのはそこじゃないかな?、って。

    >「直観」を悟性に従属させたみたいな?<
    ううん、従属させた、っていうんじゃなくて、滑り込ませなくちゃならなかった、みたいな〜?そいうじゃないと、カントの、理論的に成立しなくなっちゃうことを彼はわかってるから。

    >もしこうだと、カントの説は大分、感性無視気味の頭でっかちな雰囲気にみえるね<
    ん〜ん、カントはそういうんじゃないと思うよ、わたし。

    カントが生きた時代、小牧さんの「カント」っていう本からしかわたし知らないからないし、それが本当のことかも判断できないけど、

    『純粋理性批判』の『批判』を「鵜呑みにせずよく吟味すること」ってしたとき、
    純粋に(これまで言われてきた)理性と呼んでいるものを鵜呑みにせずよく吟味すること、をカントはしたんじゃないかしら?

    『純理』って、「理性」そのものについて考えることから始めたんでしょ?

    あ、ごめんね、これ、わたしの想像的思いつきで書いてるだけだから、この続きは気が向いたらいつか「つれづれ」で。








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