□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/07/19(Wed) 20:09:56)
| No31830、pipitさま、ありがと。
ふと思ったんね。 以下はあくまでもわたしの勝手なつね。
カント、最初のころは、類を表象一般として、そこから考えていって、理念・理性概念(悟性概念から生じる経験の可能性を超える概念)へとたどり着いたみたいに、“考えることをしていた”、それによって“考えられたもの”が出来てきたんだけど、今度はその“考えられたもの”によって、そこから見るようになっていった、みたいな?感じなのかも。 簡単にいっちゃうと、 No30026のように、 “考えることをしていた”んだけど、しばらくすると、逆になっていった? それを図にして見たのを添付しまーす。
この図、ちょっと説明すると、まず、「悟性」があるのね。そのうちにその源泉を有するかぎりの「純粋概念」があって、それから見て対比されるのは「経験的概念」ね。「純粋概念」から見た「概念」になって、それから見て対比されるのは「直観」。「純粋概念」っていう「概念」から見た「認識」は「客観的知覚」と見られるようになった「知覚」・・・・・ こんなふうになっていったんじゃないかしら?って。
【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】の訳注によると、 〔カントにとっては、〈空間〉と〈時間〉とは人間精神の主観的構造に属するものであり、感性(=対象受容の能力)が働く場合の基本形式である。したがって、それらは認識主観を離れた〈物自体〉の性質や関係ではない。そこで空間、時間は、われわれに〈経験〉されるいっさいのもの(=現象)に関しては客観的であり、空間、時間のなかに存在しないような対象は、経験のなかにないことになる。その意味で、それらは〈経験的実在性〉を持つと言われる。が、他方、それらがわれわれの感性を離れて実在するものではないとすれば、経験を超えた実在性は持たないわけであり、そのことが空間・時間の〈超越論的観念性〉と言われるのである。・・・・〕 ってある。 カントは“考えてることをしていた”なかで、「感性が働く場合の基本的形式は時間・空間である」っていう判断に達した。で、カントによって考えられた「それ」によって、いつしか、「理性的に、感性は、時間・空間によって、働いていなければならない」、みたいになっちゃった、みたいな感じ?
No31838、 >カントによると、『すでに指摘したように経験とは、知覚によって客体を認識することである。』だそうです。< わたしもそう見てる。 わたしの言い方では、 〈知覚は経験のうちで働いている。知覚されたものは私の内で構成された客体。〉 こんな感じになるかな。
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