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■36300 / inTopicNo.25)  Re[22]: Re:「論理学」っていうの
  
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/27(Sat) 14:49:27)
    2024/01/27(Sat) 16:00:44 編集(投稿者)

    No36276に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんにちは

    > >そういう分析の仕方がメルポンの現象学にあるの?<
    > についてはちょっと。
    > 分析っていうか、態度的なの、ちょっと書いて見る。
    >
    > 【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかに、
    > 『哲学者は永遠の初心者』とか『いつも最初からやり直す』とかある。
    > あと、
    > 『哲学が反省や合致を自称すると同時に、自分がみいだそうとするものをすでに前提としているという批判が正しいとすれば、哲学は最初からすべてをやり直す必要がある。反省や直観が手にいれた道具を投げ捨て、まだ反省も直観も区別されていない場所に身をおくこと、「主観」と「客観」、実存と本質が混ざり合ったまま、一挙にわたしに与えられ、まだ「加工されてない」経験のうちに、これらをふたたび定義しなおせるような場に身をおく必要がある。』
    > っていうのもある。

    自分が持っている前提を疑っていくというのは哲学的とされるのでしょうが、そのような態度で考えていこうとする場合でも、『自分がみいだそうとするものをすでに前提としている』というのはありそう。
    もっと前、すべての前提が成立する前のところからやり直すということかな。

    > わたし、メルポンの現象学のと、カントの超越論的のと、を見比べてもいるんだけど、
    > No36210の添付されたのところ読んだとき、
    > 【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】の、
    > 本文
    > 『…‥「我思う」(コーギトー)が言わば対象によっておこされた〈幻覚〉であるということもありうるのである。こう言うと、あるいは、「我思う」(コーギトー)はわれわれのあらゆる表象にともない「えなくてはならない」〔22〕のであり(それはたしかのことではあるが)、……』
    > の、
    > 訳注〔22〕
    > カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけである(kritik der reinen Vernunft,B.132)。なお、これまで。メルロ=ポンティによってしばしば引用されてきたサルトルの『自我の超越』は、カントのこの言葉を手がかりとして、「我思う」があらゆる表象に「ともないえなくてはならない」のならば、実際には「ともなっていない」はずだ、として諸表象の統一的原理としての〈自我〉を排除し、その原理をむしろ〈対象〉そのものの側に求めてゆこうとするものであることは周知のことであろう。
    >
    > っていうの、たぶんわたし想い出してたのかもしれない。

    「ともないえなくてはならない」というのは、後で出てくる権利問題的な言い方だと思う。
    カントは(理性的な)認識が成立するための条件へさかのぼっているのかもしれないけれど、メルロ=ポンティやサルトルは、それも覆して、諸表象の統一的原理をものの側に求めると・・・
    『「ともないえなくてはならない」のならば、実際には「ともなっていない」はずだ』というところは、今自分には分からないけれど。

    > 添付されたところの、
    > 『だから、対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』
    > を見て、メルポンだったら、「対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものは存在しないかもしれない、対象とアプリオリにかかわることのできるもの、概念のほかにも存在するかもしれない。」ってなるのかな?って。
    >
    > あ、これって、あのとき、たぶん、直観的に、わたしに想われたのを、言葉で表現するための後付けなのかもしれないけどね。

    そういう風に意識できるのは素晴らしいと思いました。

    > いま、こういうの書いてるときに思ったんだけど、さらに、『だから』の前も気になるところね。
    > カントにおいて、『対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』って思われた、その理由が『だから』の前に書かれてあるのかな?ってすると〜、メルポンはそこへと遡るかもしれない。

    前の部分を読んでも、何が「だから」なのか自分には分からなかった・・。一応画像添付します。「超越論的」についての説明も入っているので。

    > あと、
    > 中島義道さんは、
    > 「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)。
    > って言ってるのを読んだことある。
    > わたしのなかにあるカントの「超越論的」のイメージ、わたしの先入見かも、だけどね。
    >
    > あ、だからといってわたし、カントの『純理』、”否定”してるわけじゃなのよ。
    > 神に対して人間の「認識(物事を正しく理解し判断する)」においては、カントの言ってること、“そうなのかもしれない”、っていうのもわたしのうちにはあるから。

    そうなんか

    > メルポンの現象学のことになるとついお喋りが過ぎちゃうみたい。
    > ゴメン、です。

    参考になるし、面白いです。
    自分がカントについて
    『カントのそういう持っていき方はどうなん? と感じてはいた。』
    と書いたことにかんするヒントがあると思うし。少なくとも、権利問題の「これができるということは、こうなっているはず」というやり方に対して、他の方法を主張している哲学者がいるんだなと。


    > 捨て置いて。

    私の投稿こそ捨て置いてくれてかまいません。
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引用返信/返信 削除キー/
■36276 / inTopicNo.26)  Re[19]: Re:「論理学」っていうの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/24(Wed) 18:46:59)
    No36260
    おくったがわさん、「論理学」について、ありがとございま〜す。
    わたしいまはメルポンの〈感性の世界〉にとりかかってるから、「論理学」(たぶん知性の世界)のことには参加できない。

    >そういう分析の仕方がメルポンの現象学にあるの?<
    についてはちょっと。
    分析っていうか、態度的なの、ちょっと書いて見る。

    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】のなかに、
    『哲学者は永遠の初心者』とか『いつも最初からやり直す』とかある。
    あと、
    『哲学が反省や合致を自称すると同時に、自分がみいだそうとするものをすでに前提としているという批判が正しいとすれば、哲学は最初からすべてをやり直す必要がある。反省や直観が手にいれた道具を投げ捨て、まだ反省も直観も区別されていない場所に身をおくこと、「主観」と「客観」、実存と本質が混ざり合ったまま、一挙にわたしに与えられ、まだ「加工されてない」経験のうちに、これらをふたたび定義しなおせるような場に身をおく必要がある。』
    っていうのもある。

    わたし、メルポンの現象学のと、カントの超越論的のと、を見比べてもいるんだけど、
    No36210の添付されたのところ読んだとき、
    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】の、
    本文
    『…‥「我思う」(コーギトー)が言わば対象によっておこされた〈幻覚〉であるということもありうるのである。こう言うと、あるいは、「我思う」(コーギトー)はわれわれのあらゆる表象にともない「えなくてはならない」〔22〕のであり(それはたしかのことではあるが)、……』
    の、
    訳注〔22〕
    カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけである(kritik der reinen Vernunft,B.132)。なお、これまで。メルロ=ポンティによってしばしば引用されてきたサルトルの『自我の超越』は、カントのこの言葉を手がかりとして、「我思う」があらゆる表象に「ともないえなくてはならない」のならば、実際には「ともなっていない」はずだ、として諸表象の統一的原理としての〈自我〉を排除し、その原理をむしろ〈対象〉そのものの側に求めてゆこうとするものであることは周知のことであろう。

    っていうの、たぶんわたし想い出してたのかもしれない。

    添付されたところの、
    『だから、対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』
    を見て、メルポンだったら、「対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものは存在しないかもしれない、対象とアプリオリにかかわることのできるもの、概念のほかにも存在するかもしれない。」ってなるのかな?って。

    あ、これって、あのとき、たぶん、直観的に、わたしに想われたのを、言葉で表現するための後付けなのかもしれないけどね。

    いま、こういうの書いてるときに思ったんだけど、さらに、『だから』の前も気になるところね。
    カントにおいて、『対象とアプリオリにかかわることのできる概念というものも存在するかもしれない。』って思われた、その理由が『だから』の前に書かれてあるのかな?ってすると〜、メルポンはそこへと遡るかもしれない。
    あと、
    中島義道さんは、
    「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)。
    って言ってるのを読んだことある。
    わたしのなかにあるカントの「超越論的」のイメージ、わたしの先入見かも、だけどね。

    あ、だからといってわたし、カントの『純理』、”否定”してるわけじゃなのよ。
    神に対して人間の「認識(物事を正しく理解し判断する)」においては、カントの言ってること、“そうなのかもしれない”、っていうのもわたしのうちにはあるから。

    メルポンの現象学のことになるとついお喋りが過ぎちゃうみたい。
    ゴメン、です。
    捨て置いて。

引用返信/返信 削除キー/
■36275 / inTopicNo.27)  「言語哲学がはじまる」
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/24(Wed) 17:48:19)
    2024/01/25(Thu) 19:56:48 編集(投稿者)

    話題になっていた「言語哲学がはじまる」を読みました。

    論理形式と論理空間の意味が分りやすく説明されていて収穫でした。

    以下、『 』内は「言語哲学がはじまる」からの引用
    -WS と付けた部分は「ウィトゲンシュタインセレクション」の「論理哲学論考」に関する章からの関連部分抜粋。

    対象の論理形式 : その対象が、どの可能的な事態に現れ得るか、その論理的可能性のこと。
       (2.0141 対象が諸事態のうちに現れる可能性が、すなわち対象の形式である -WS)
    語の論理形式 : その語が、どの有意味な文に現れ得るか、その論理的可能性のこと。

    (「事態」だけで「可能的」の意味が含まれるが、念のため「可能的な事態」と表現する(著者野矢茂樹)とのことです)

    。o0 「富士山は-噴火したことがある」は有意味で真
       「富士山に-小惑星が衝突した」は有意味だが(この世界では)偽。
       「富士山は - 素数である」は無意味
      各語について、有意味な文に現れ得る他の語との結びつき全体が、その語の(論理)形式。 0o。

    『有意味性の最終的な根拠は、実際の私たちの言語使用にあると言われています。』
      
    『対象の論理形式と語の論理形式は厳密に一致する。』

    事実を分解して対象を組み立てなおして事実でない事態を捉えるということはできない。
    それは、言語の側で、文から語を取り出し組み立てなおして、有意味だが偽である文を作り、対応する事態を捉える方向でのみできる。
    (と野矢茂樹は言っている(と私は読んだ))

    ******

    可能的な諸事態のうち、実現しているもの(事実)の組合せで、その世界のありようが決まる。 
     (2.04 存立する事態の総体が世界である -WS)
    それらすべての(可能な)世界の集合が「論理空間」

    この世界(w1)では「富士山に-小惑星が衝突した」は偽で、「富士山は-噴火したことがある」は真だが、
    そうではない可能世界も考えられる。(富士山が噴火した歴史が無かったり、富士山に小惑星が衝突したことがある世界)
    w2 「富士山に-小惑星が衝突した」-真 &「富士山は-噴火したことがある」-真
    w3 「富士山に-小惑星が衝突した」-偽 &「富士山は-噴火したことがある」-偽
    w4 「富士山に-小惑星が衝突した」-真 & 「富士山は-噴火したことがある」-偽

    そんな風に有意味な文に対応する諸事態の中で事実であるものの組合せが異なる世界が考えられる。
    それらの全てを要素とする集合 {w1,w2,w3,w4,…} が論理空間

    *******

    フレーゲ「語の意味は文の意味との関係でのみ決まる」(文脈原理)
    に対し、
    ウィトゲンシュタイン「語の意味は言語全体との関係でのみ決まる」(全体論的言語観)

    *****
    (ここまでの読み取りに間違いがあればご指摘ください。)

    以下トンチンカンなことを書いていたらすみません。

    okutagawa 。o0
    言語内の文を分解し組み立てなおすことで、様々な有意味な文(事実に対応するとは限らないが事態には対応する)が得られる。
    同時に、様々な可能的な事態が得られる。

    言語全体を知らなければ各語の論理形式を確定できないが、言語全体を知る人はいないだろう

    私にわかる[語の論理形式]は、私が知っている範囲の言語全体から導かれる。
    それが対象の論理形式と一致する。

    私の論理空間(可能世界の集合)の限界は、私の言語の限界と一致する。


    私の論理空間から、実現している私の世界のありようを確定するのが、私の知識だとしたら、
    私の知識の限界が、私の世界の限界となるのか。

    私の言語が拡張すれば、私の論理空間が拡張する。
    私の知識が拡張すれば、私の世界が拡張する(もしくは縮小する)。


    また、
    『有意味性の最終的な根拠は、実際の私たちの言語使用にあると言われています。』
    とどう組み合わせればいいのか。

    「私たち」という総体を束ねた視点からの、あるいは私たちに共通する論理空間はあるのか
    (全ての人の言語使用を総合して、万人共通の(少なくとも同じ社会の成員共通の)論理空間を導くような視点は存在するのか…)

    4.11 真なる命題の総体が全自然科学である。 WS-

    それは誰から、どこから見てなのか


    ☆野矢さんの「『論理哲学論考』を読む」を読むことにした。
引用返信/返信 削除キー/
■36264 / inTopicNo.28)  Re[20]: Yahoo!掲示板総括 その1
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/23(Tue) 22:52:46)
    No36221に返信(パニチェさんの記事)

    >>過去の話、ご迷惑かなと思いつつ書いていたので、パニチェさんが乗り気と分かり嬉しいです。
    >
    > 私もYahoo!掲示板を共に振り返ることがでるメンバーがいて超ラッキーです。^^

    ありがとうございます。
    ところがですね。関わった人の名簿とかを見てあらためて思うのは、私は人と会話をあまりしなかったし、しばらく投稿しては長く休むというリズムでやっていて、知り合いと言える人もわずかだったので、圧倒的に経験が少なく、総括できるような資格がないと気づきました。総括とは大げさで、自分なりに思ったこと-程度のことでした。

    >>Yahoo!掲示板総括トピができたら自分も投稿させていただければありがたいです。よろしくお願いします。(でもパニチェさんの総括専用にされたい場合は、自分はこのトピでいいです)
    >
    > 何をおっしゃるウサギさん(笑)。
    > もちろん、ウェルカムです!!

    ありがとうございます。あちらに書けそうなことがあれば書かせていただいて、自分個人に偏ったことは、このトピでとしたいと思います。


    前の投稿のUさんというのは、アーバンネットさんという人で、パニチェさんは必ず知っていると思い込んでいましたが、名簿に名前がなかったですね。接触されたことは無かったですか。

    罵倒屋のように名前を出しましたが、喧嘩になっていない時は基本勤勉な人で、社会学・哲学等の文献などをこまめに引用紹介などされていて、知識の提供に貢献された面もありました。名誉のために補足しておきます。また、喧嘩の後、仲良くなる的な切り替えも、まあまあ利く人であったと。(その後また喧嘩になったりする)
引用返信/返信 削除キー/
■36263 / inTopicNo.29)  Re[21]: 転法さんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/23(Tue) 22:31:23)
    No36244に返信(転法さんの記事)
    > まあ、そんなよ〜なことでもおますね。
    > (@´Д`)ノ
    >
    > 要するに、コペルニクス的転回で「もの自体」を導出すれば、ヒューム的懐疑主義に陥ってしまうわけでおマスが、カントの場合、現状、辻褄が合っているんだからエ〜んじゃないの・・・でも、我々の思っていることって絶対じゃないよね・・・と言うような感じなのが、「批判」ではないかと思いマンねん。
    > (´-ω-`;)ゞポリポリ

    そうだとしたら時代をすごく先取りしていた感じですか? 現代的…
    純粋理性批判の文章は難解すぎてなかなか進めなくて、結論として何が言いたいかまでは自分には目星も付いてません。(´-ω-`;)ゞポリポリ

    > つーことで、よ〜わからんモンに取り立てて、合理論だ、経験論だとかユーても意味がないから、もっと現実的に身のある考え方をしようぜみたいな感じだと捉えておりマンが、ダメでッカネ?
    > ( ´・ω・`)y─┛~~

    人間の理性(思考)でできる限界の線引きと、やって意味のあることの線引きをしたのでしょうか。


    > セッソーが、徒然なるままに、カイロプラクティック哲学についての書き綴った駄文がネットにおマスが、御目汚しにみてみまっか?

    是非ぜひ、読みたいです! どこで見られますか?

    > セッソーの写真が載っているので、恥ずかしいでおマスが。
    > (/ω\) いやーん

    (/ω\) いやーん
引用返信/返信 削除キー/
■36261 / inTopicNo.30)  Re[20]: pipitさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/23(Tue) 20:13:38)
    No36239に返信(pipitさんの記事)
    いつも情報ありがとうございます。

    > pipitが今読み出している箇所が、偶然にもおくたがわさんの問題意識に関連するように思える箇所だったので、参考になるなら嬉しいなと、こちらに原文などをコピペさせてもらいますね。
    > 「第二部・超越論的論理学」の「第一部門・超越論的分析論」の「第二篇・原則の分析論」の箇所で、B170、
    > 中山元先生訳本では第3巻のp18(中山番号182)です。
    > もし前後も合わせて読みたい時は、喜んで引用しますのでおっしゃってください。

    ありがとうございます。いずれお願いするかもしれません。その時はよろしくお願いします。

    > 以下No36238より。
    > 文字化けする箇所は似たアルファベットに置き換えます。
    >
    > Die transzendentale Logik, da sie auf einen bestimmten Inhalt, namlich bloB der reinen Erkenntnisse a priori, eingeschrankt ist, kann es ihr in dieser Einteilung nicht nachtun.
    >
    > 上記文章のDeepL英訳
    > 「Transcendental logic, since it is limited to a certain content, namely only pure a priori knowledge, cannot follow it in this division.」
    > 上記文章のDeepL日訳
    > 「超越論的論理学は、ある特定の内容、すなわち純粋な先験的知識のみに限定されているため、この分類において超越論的論理学に追随することはできない。」

    やはり「純粋な先験的知識のみに限定」としているのですね。。


引用返信/返信 削除キー/
■36260 / inTopicNo.31)  Re[19]: Re:「論理学」っていうの
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/23(Tue) 19:54:26)
    No36219に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんばんは

    > 「論理学」っていうの、どいうのかな〜って、思ってる。
    > わたし、「論証」(前提→導出→結論)とは区別してる。

    妥当な論証(妥当な論証形式)とはどういうものか、とかを研究するのが論理学という関係が思い浮かんだけど、
    wikiの「論理学」を見ると最初に、
    『論理学(ろんりがく、英: logic、ロジック)とは、「論理」を成り立たせる論証の構成やその体系を研究する学問である。』
    ですと。

    > この本でわたしに印象に残ってるのは、
    > 「論証」のなかの「導出」に関わることだけ、っていうこと。
    > 「前提」にはかかわらない、もし前提が真なら、もし前提が偽なら、から出発しててて、そう”もし”ね。前提が偽なのか真なのかには関わらない、ん〜ん、前提の真偽を問うことをしない、みたいな?っていう態度をとてるのを「論理学」って言うんだな〜って思った。

    カントの説明の「認識」を、「前提(命題)」に置き換えると、
    各前提(命題)の内容や、どのように得られたかや、現実の世界で真かどうか、には一切かかわらず、前提と結論の関係(導出方法)だけを扱う、という感じになると思われ、
    カントの時代の一般論理学も、既に今と同じ発想だったんだな、と思ったわけ。

    > 自称メルポンの現象学派から「添付されたの」ちょっとだけ見て見るね。
    >
    > カントの場合、
    >
    > 「かもしれない」から始まって、「期待しながら」になって、「したい」になって、さいごに「はず」ってなってるみたい。

    鋭い。面白い。カントのそういう持っていき方はどうなん? と感じてはいた。

    そういう分析の仕方がメルポンの現象学にあるの?
引用返信/返信 削除キー/
■36244 / inTopicNo.32)  おくたがわさんへ
□投稿者/ 転法 -(2024/01/21(Sun) 11:35:33)
    まあ、そんなよ〜なことでもおますね。
    (@´Д`)ノ

    要するに、コペルニクス的転回で「もの自体」を導出すれば、ヒューム的懐疑主義に陥ってしまうわけでおマスが、カントの場合、現状、辻褄が合っているんだからエ〜んじゃないの・・・でも、我々の思っていることって絶対じゃないよね・・・と言うような感じなのが、「批判」ではないかと思いマンねん。
    (´-ω-`;)ゞポリポリ

    つーことで、よ〜わからんモンに取り立てて、合理論だ、経験論だとかユーても意味がないから、もっと現実的に身のある考え方をしようぜみたいな感じだと捉えておりマンが、ダメでッカネ?
    ( ´・ω・`)y─┛~~

    セッソーが、徒然なるままに、カイロプラクティック哲学についての書き綴った駄文がネットにおマスが、御目汚しにみてみまっか?

    セッソーの写真が載っているので、恥ずかしいでおマスが。
    (/ω\) いやーん



    正法無常宗祖師 沙門転法(/\)南無一切無常絶対超越真理

引用返信/返信 削除キー/
■36239 / inTopicNo.33)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/01/20(Sat) 17:05:28)
    2024/01/20(Sat) 17:18:22 編集(投稿者)

    おくたがわさん、こんにちは(^ ^)

    pipitが今読み出している箇所が、偶然にもおくたがわさんの問題意識に関連するように思える箇所だったので、参考になるなら嬉しいなと、こちらに原文などをコピペさせてもらいますね。
    「第二部・超越論的論理学」の「第一部門・超越論的分析論」の「第二篇・原則の分析論」の箇所で、B170、
    中山元先生訳本では第3巻のp18(中山番号182)です。
    もし前後も合わせて読みたい時は、喜んで引用しますのでおっしゃってください。

    以下No36238より。
    文字化けする箇所は似たアルファベットに置き換えます。

    Die transzendentale Logik, da sie auf einen bestimmten Inhalt, namlich bloB der reinen Erkenntnisse a priori, eingeschrankt ist, kann es ihr in dieser Einteilung nicht nachtun.

    上記文章のDeepL英訳
    「Transcendental logic, since it is limited to a certain content, namely only pure a priori knowledge, cannot follow it in this division.」
    上記文章のDeepL日訳
    「超越論的論理学は、ある特定の内容、すなわち純粋な先験的知識のみに限定されているため、この分類において超越論的論理学に追随することはできない。」

    おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■36221 / inTopicNo.34)  Re[19]: Yahoo!掲示板総括 その1
□投稿者/ パニチェ -(2024/01/19(Fri) 20:59:19)
    こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。

    No36214に返信(おくたがわさんの記事)

    > 転記もちろんOKです。

    ありがとうございます。

    > 過去の話、ご迷惑かなと思いつつ書いていたので、パニチェさんが乗り気と分かり嬉しいです。

    私もYahoo!掲示板を共に振り返ることがでるメンバーがいて超ラッキーです。^^

    > Yahoo!掲示板総括トピができたら自分も投稿させていただければありがたいです。よろしくお願いします。(でもパニチェさんの総括専用にされたい場合は、自分はこのトピでいいです)

    何をおっしゃるウサギさん(笑)。
    もちろん、ウェルカムです!!
引用返信/返信 削除キー/
■36219 / inTopicNo.35)  Re[18]: Re:「論理学」っていうの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/19(Fri) 20:53:28)
    No36210

    >悪魔ちゃんの持っている野矢さんの論理学の本<
    おくったがわさん、よく覚えてるのね。
    わたしが〈論理がくってなあに?〉で、読んだのが【入門!論理学/著矢野茂樹/中央公論社2006年】。

    >たぶん同じような説明があるはず<
    ごめん、ちょっとわたし理解できてなかったかも。

    この本でわたしに印象に残ってるのは、
    「論証」のなかの「導出」に関わることだけ、っていうこと。
    「前提」にはかかわらない、もし前提が真なら、もし前提が偽なら、から出発しててて、そう”もし”ね。前提が偽なのか真なのかには関わらない、ん〜ん、前提の真偽を問うことをしない、みたいな?っていう態度をとてるのを「論理学」って言うんだな〜って思った。

    「論理学」っていうの、どいうのかな〜って、思ってる。
    わたし、「論証」(前提→導出→結論)とは区別してる。

    自称メルポンの現象学派から「添付されたの」ちょっとだけ見て見るね。

    カントの場合、

    「かもしれない」から始まって、「期待しながら」になって、「したい」になって、さいごに「はず」ってなってるみたい。









引用返信/返信 削除キー/
■36215 / inTopicNo.36)  転法さんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/19(Fri) 11:58:16)
    2024/01/19(Fri) 19:51:39 編集(投稿者)

    No36190に返信(転法さんの記事)

    びっくりクリリン
    お久しぶりですね〜

    > (〃^∇^)ノ元気でッか〜〜〜。
    > ( ̄へ ̄ )y─┛~~  元気があればなんでも出来る。
    >
    > といった御仁は、お亡くなりになりましたでおますが、おくたがわさんも元気ソーで何よりでおます。
    >
    > 懐かしいでンね〜。

    はい!

    > 月蛇とか、銅鐸とか、梵梵法主なんかも来て欲しいでおマスな〜、
    > (。-`ω´-) んー・・ あの頃は若かった・・・
    > カントなら、基底に「もの自体」がおマスから、そこをキチンと把握して考えんとあきまへんか?

    「もの自体」に触発されて現象を作り上げるときに用いる形式が、あまりに違いすぎると話が通じないというようなことですか。
    そんな話はしてない?

    銅鐸、梵梵法主各氏のことはあまり知らないですが、月蛇についてはいたほうが話題にしやすいので良いかとは思います。

    > まあ、そうすると、桶の中の脳というアニさんの得意な話になりまっかね?

    分からないけど、もの自体との接触(触発)がある世界と同様の世界を、電極の刺激だけで、生きられる(生きていると実感出来る)かというような話になりますか? 全然違ってたらすみません。

    > マトリックスの世界なんていうのはもう古いんでッか。

    独我論・独在論が旬の話題のようですよ。

    > φ( ̄∇ ̄o)ゞ ウーン
    >
    >
    > 正法無常宗祖師 沙門転法(/\)南無一切無常絶対超越真理
    >
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