| みのりさん、こんにちは。 今日は、晴れたり曇ったり安定していないので、せっかく外に干した洗濯物も 部屋干しに変更しました。
> 直接に聖書からだったのですね。 > その中で特に、心惹かれる例え話を一つだけあげるとしたら何になりますか?
「信仰の道をわたしは選び取りました。」(旧約聖書『詩編』119編30節)
実存的には、常に様々な選択肢があり、どれかを選ばなくてはならないし、 その責任も自分に返ってきます。この一瞬一瞬の選択によって、私たちの人生が 展開していくのですが、あらゆる選択に先立つ根本的な選択があります。
それは、神に従う道と、神を無視する道です。
なので、生きる選択は、主の慈愛の恵みによって善きに変えられて行くものだと、 私は信じています。 そして、それは、様々な困難のなかから選び取る「狭き門」であり、だれが持つ聖書にも、同じ言葉が書かれていますが、大事なのは、御言葉を置く位置です。
御言葉を自分の上に置き、自分を照らさせ、主に支配していただくと澄んだ目の健全な心がつくられます。 その健全な目(心)は、神を愛し、隣人を愛する生き方へ導くものと考えます。
>「どうして宇宙があり、私たちはいるのか」 > もし、このあたりについて、思い当たるところがあったら教えていただけないでしょうか。
現象学的には、日常の生とは、自分の感覚にあるものに注意を向け、自分の周囲の世界に対して志向性の関心を働かせながら営まれるものです。
世界の中で自分の身体が占めている位置、即ち今自分がいる「ここ」の場所が、 ゼロ地点の出発点であり、いかなる対象もこのゼロ地点を含む身体との関係においてのみ「そこ」とか「あそこ」あるいは、上下前後右左というパースペクティブの位置が与えられます。
このように身体は、全ての知覚の媒体として自己のゼロ地点を伴いながらその都度、知覚の場と対象の構成とに加わっているのです。
人の経験は、当たり前ですが、全てこうした身体を通じて現れます。 なので、人の考え、思考と行動も、基礎的な構造は、キネステーゼの運動感覚であり、自我を担う身体なのです。
人は、何かの目的のために手や身体を動かしますが、これは、感覚を遂行する 自己自身についての意識の事です。
こうした目的を持ったキネステーゼ的な自己運動は、外からの刺激でさえも 単なる受け身ではなく、受け取る身体的自我の能動性が前提となっているからです。
現象学においては、世界における空間とは、カントのような動かない感性の主観的な直観形式ではなく、自己のゼロ地点からの能動的に動き回る身体のキネステーゼ機能による結果として構成される客観性であり、だから宇宙は存在し、私たちがいることが意識されるのです。
これは人間がこの世界に投げ出されておりながら、さらにみずから何かを選択し能動的に投げかける存在であるということ。 「自分はこの世界にいや応なく投げ出されているが、選択によって未来をつくることができる」そんなことだと思います。
> 追伸。 動画、拝見しました。 あのシリーズはおもしろいですね。 > UFOや宇宙人というのも存在を信じすぎず否定せず、という感じでいます。
私は、この動画を見ると何故か泣けてくるんです。 歳だからでしょうか。 |