| > >>パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。 > >>天上天下唯我独尊がありましたね。 これ、〈私〉に近いのかもしれないと、ふと思いました。 >>なんと、お釈迦様が〈私〉を・・・になるのかな。 >>それともちょっと違うのでしょうか。 >>私にはわからなくてすみません。 > > いえいえ、とんでもないです。^^ > 以下はパニチェ的な我流解釈による「天上天下唯我独尊」です。 > > まずエピソードとしての「天上天下唯我独尊」は後世の創作です。 > で、教義としての意味は仏性を自己の本性としてこの世に生まれ出た人間賛歌であると解釈しています。 > この「唯我独尊」は自他の分別を越えたところの「我」と「独」であることから「一切衆生悉有仏性」を指し、それを認識できる人間であることの尊さを表現した言葉であるように思います。
なるほど。 自他の分別を超えたところの「我」と「独」が「唯我独尊」であり、意味としては、「一切衆生悉有仏性」とも通じてくる、という解釈になるのですね。 そして、そうしたことを認識できる人間であることの尊さを表現している、と。 人間の持つ善性を讃えている言葉とも言えるのかな。 絶滅危惧種の暴走族の背中に書かれてそうな「唯我独尊」が、仏性を本性として生まれてきた人間賛歌を意味するというのは、すでに「一切衆生悉有仏性」なのかも、って感じてしまいました。(意味不明かもですみません。でも、ふざけているのではなく・・・伝わるといいな、という思いでいます。)
パニチェさんももちろんご存じだと思う愚さんが、現在はブログとリンクしたYouTubeで活動されてるんですね。 ブログのコメント欄は、特定の数名のコメントで連日すごい数です。 普通、ブログにだらだらコメント入れられたら嫌だと思うんですが、愚さんは厭わずたまに返信もしてるんですよね。 パニチェさんが書いたくださった解説で、愚さんのブログの状況が浮かんできました。
>>それから、禅語の「主人公」。本来の自己のことなのだそうですが、本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているといえるのではないか、と思いました。 >>いずれにしても、無我、非我、空でいったん否定されてから蘇る東洋哲学での「私」と、もともと自我として備わる西洋哲学の「私」の違い、というのはあるのかもしれません。 > > 本来の自己は真我とか無位の真人なんかもそうですね。
はい、そうですよね。
> 本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているかどうかは、パニチェの底が抜けてからでないと返信できないところです。 > 分かりませぬ、すまそ。。。^^
パニチェさんは、人としての深みがすでにすごい(この語彙力のなさ、すみません。)と思うんです。 率直で裏表がないのに愛があるのが文面からわかります。 |