| パニチェさん、レスありがとうございます。
>>仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。 >>西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。 > > 同意です。 > 悟りの内実が言語道断とか不立文字(教外別伝)、勝義諦と表記される言語化できないものであるから尚更ですね。 > そもそも自己自体である〈私〉が言語化できないことも関連するとは思いますが、ここのところは未だ探究中です。
禅の公案も正解は一つだけに限定されているものではなく、おおよその正解らしさの方向性はありながらも、その人がナマの命としてどう表現するか、を見られるものなのかな、とか、ふと浮かびました。
〈私〉を言語化しようとすると、完全には無理なのである意味、妥協したところでの表現をしているのだな、と考えると、おもしろいです。
>>縁ってすごいな、って思います。 >>テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。 >>そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。 >>西洋と東洋の出会いなのかな、と。 > > 禿同です。私もそのように考えていますし、更にこのテーマは脳科学や認知科学とも出会います。
パニチェさんは、その分野にもお詳しくいろいろと書かれていますよね。 私には難しくてわからない部分が多いです。 ただ、意識って脳だけに収まっているものなのだろうか、というのは考えます。 パニチェさんは、意識のありかについてはどのようにお考えですか? もしよかったら簡単にでいいですので教えてください。
>>〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか? >>そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。 > > ここ厳密には探究途上でペンディングです。 > 少なくとも現段階でのパニチェにとってこれ以上の実相はないというのが〈私〉ではあるんですが、諸法実相との合一は未だ為しえておりません。
はい。 |