| ■No6815に返信(パニチェさんの記事) > 2020/09/19(Sat) 12:32:19 編集(投稿者) > > こんにちは、横レス失礼します。
パニチェさん、こんにちは。 レスありがとうございました。
> ■No6814に返信(minoriさんの記事) >>永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。 > > 同意です。無我を目指す自己探究の起点において一般的な「私」からスタートすることはあまりにも短絡的ではないか、というような意味も含んでいるんだと思います。 > 例えば無我にある有無、つまり「何をもって存在とするか」を問う存在論は、これだけで哲学の主要な一大テーマですからね。 > > 『「無我」と言った時に、何がないのか。この「無我」って概念ははっきりしないんですね。我って言うと、分かったような気がして、我が無いんだというようなことを言うんですけど、いったい何がないのか、つまり、ないそれはいったい何であるのか、が問題です。哲学をやっている人間は、無我というような単純な表現で分かったつもりになって、それを金科玉条のようにしてしまうことを好みません。(ヴァージョン1-「〈仏教3.0〉を哲学する P.33」より引用)』
私は仏教にも西洋哲学にもまったく詳しくないので、僭越な意見になってしまうことを皆様にお許し頂いて書くとすると・・・ 仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。 西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。 >>私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。 >>なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。 > > なるほど!それは気付きませんでした。 > あと、minoriさんのレスに触発されて思ったのは。。。 > 禅者が〈私〉をスルーしていたり、知らなかったりするのは、求道の目的でもある苦の滅却にあまり役立たない(全く役立たないということではないが、あまりにも遠回りというか本道ではない)からかもしれないとも思いました。
はい、それもあるでしょうし、西洋哲学まで手が回らない人が多いというのもあるんじゃないでしょうか。 どっちにも手が回ってないminoriが言うのは僭越すぎて厚顔無恥にもほどがあるのは承知の上で・・・書かないと始まらないので、皆様どうぞお許しくださいね。。。<m(__)m>
> パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。
縁ってすごいな、って思います。 テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。 そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。 西洋と東洋の出会いなのかな、と。
〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか? そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。 |