| 2020/09/19(Sat) 12:32:19 編集(投稿者)
こんにちは、横レス失礼します。
■No6814に返信(minoriさんの記事) > 永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。
同意です。無我を目指す自己探究の起点において一般的な「私」からスタートすることはあまりにも短絡的ではないか、というような意味も含んでいるんだと思います。 例えば無我にある有無、つまり「何をもって存在とするか」を問う存在論は、これだけで哲学の主要な一大テーマですからね。
『「無我」と言った時に、何がないのか。この「無我」って概念ははっきりしないんですね。我って言うと、分かったような気がして、我が無いんだというようなことを言うんですけど、いったい何がないのか、つまり、ないそれはいったい何であるのか、が問題です。哲学をやっている人間は、無我というような単純な表現で分かったつもりになって、それを金科玉条のようにしてしまうことを好みません。(ヴァージョン1-「〈仏教3.0〉を哲学する P.33」より引用)』
> 私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。 > なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。
なるほど!それは気付きませんでした。 あと、minoriさんのレスに触発されて思ったのは。。。 禅者が〈私〉をスルーしていたり、知らなかったりするのは、求道の目的でもある苦の滅却にあまり役立たない(全く役立たないということではないが、あまりにも遠回りというか本道ではない)からかもしれないとも思いました。
パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。
|