| 自己レス。
> 仏教3.0の第五図というのは、非二元での「気づき」と内容として似た部分があるのではないか、と推測している。 > > すべてのものの存在の基盤が「気づき」であり、「気づき」とともにすべてが存在している、と非二元では考える。 > 「気づき」は、物質ではなくどこに存在する、という具体的な場所を示すことが不可能なもの。 > 神、仏と言い換えてもいいようなもの。 > > 宇宙がなぜ存在しているのか、人間にはわかりようはない。 > しかし。「気づいていること」と「存在していること」は同時的事態だ。
「気づき」というのは、映画を映し出すスクリーンと考えるとわかりやすい。 一つのスクリーンに、それぞれが生きる世界の愛憎や勝敗の物語が映しだされる。
私たちはなぜ存在しているのか、という疑問は、宇宙はなぜ存在しているのか、という疑問に繋がるしかないけれど、その疑問も人間にはわかりようがない。
しかし。私たち人間が宇宙の中に生きているという壮大なストーリーは、「気づいていること」と共にある、というのは、神秘を必要としない。 映画が常にスクリーンと共にあるのと同じように、神秘を必要とはしない話だと言えると思う。
映画が第四図。スクリーンが第五図に相当する、と考えられる。 (もちろんこれは、非二元的にはそうだろうということであって、これだけが正解だという意味では決してないです。)
スクリーンと映画の譬えは、物自体から触発されて現れる現象というカントの認識論とも、偶然にも通じていると言えなくもないと思う。
映画とスクリーンの譬えというのは、ラマナマハルシ以降、アドヴァイタ(=非二元、ノンデュアリティ)で使われる表現。
人間は、第四図と第五図を同時に生きているが本籍は第五図だということ。
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