| ■No6185に返信(pipitさんの記事) > みのりさん、こんばんは。 > > 欲や怒りを生じることから離れてみたいのです。 > > 欲も苦しいし、怒りも苦しいです。 > > > ■No6184に返信(minoriさんの記事) >>pipitさん、こんばんは。 >> >> > >>わたしの場合は、仏教の涅槃にいたりたいという目標があり、 > >>涅槃とは、貪瞋痴の滅尽という定義をわたしはしています。 >> >> >>涅槃にいたりたい、というのは生きている間にってことですよね? >>貪瞋痴の滅尽ということは。 >> >>なぜ、涅槃にいたりたいと思うのですか? >>テーラワーダの目標設定がそこになってるから?
pipitさん、ありがとうございます。
> 欲や怒りを生じることから離れてみたいのです。 > > 欲も苦しいし、怒りも苦しいです。
なるほど。 ということは、欲や怒りを感じることは日常生活の中である、ということなんですね。 ネット上でのpipitさんは、いつも誰にでも優しかったし現在もそう見えるし、怒りを感じることなどないようにも私には感じられたリするのだけど、日常というのは範囲も広いし実際にそこで生活してる場所なのだから、pipitさんと言えども怒りがわく時もある、ということになるのかな。
欲や怒り。 そうしたものを感じた際、その欲や怒りがわいてきたことに対して、テーラワーダでは都度どのように対処すべきのようなことを教えているのですか? 欲や怒り、そうしたものが現れてきた、そのこと自体が良いものではない、現れてこないように努めなければならない、であるとかになるのかな?
それぞれの人が道としているものを、他の人も大切にできたらいいな、と考えているので、私はpipitさんの道を尊重したいという思いでいます。 ですのでけして、批判的な意味合いをこめての質問ではありません。
ちなみに、私は、非二元が道なんだけど。 そこでは、怒りや欲に対しての位置づけというのが特にはありません。 「気づきだけが実在であり、個人は存在しない」ので、怒りや欲がわいてきたとしてもそれは全体性から発生したものであると考えるのです。 ですので、怒りや欲がわいてきたことそのものに対して、「良い悪い」の判断はしません。 行為はあっても行為者はいない、という感じです。
怒りや欲ではなく、それらに「気づいているもの」が主体であるので、怒りや欲が浮かんできた際もそれらを即否定非難するのではなく、気づいて受け止めてあげて離す、というような感じになります。
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