| こんばんは!
>>>>「先言の〈私〉」の〈私〉はこの文章に於いては対象化されていることに間違いはなく、〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指さすことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます。
> >>上記はその通りです。
「〈私〉を「A」や「これ」に替えたり、言葉を使わなくても自分を指すことや頭の中で指し示すことでも、いずれも対象化されます」
ということに同意されているのですから、
> 「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」は合意ですが、そもそもの〈私〉は在ります。
上記での「そもそもの〈私〉は在ります」という文言で、何かが「在る」の前には必ず「その何か」の対象化がなければならない。〈私〉を記述する以前に、パニチェさんの頭の中で対象化が行われているのです。
ですから、
「対象化し変質した〈私〉の存在など無い」に合意であるのならば、既に対象化し変質した、〈私〉という表記以前の何かの存在は既に変質しており、「〈私〉の存在など無い」に合意できるのではありませんか?
もしくは、「対象化で変質」を撤回し、「言語化で変質」にしますか?
(こちらの方はロジックとして間違っていないのは自明です)
> 了解しましたが、ここ平行線になりそうな予感もあります。^^
> ここ聞いておいて申し訳ないのですが、(正直に言います)今回の返信からすると、やはり〈私〉については同じ対象(厳密には同じではありえないのですが)について話してないと思います。 > ダンザさんがパニチェが言うから仮に「在るとしよう」としたところの仮の〈私〉のような気がしています。この段階で明確に言えることは、それは〈私〉ではないということです。
パニチェさんの感覚上の〈私〉ではないと断言されているので、この掲示板に記述するのは無意味と判断し小論を書くのはやめることにします。
とりあえずチャートは20枚ほど準備しておりましたが、約2万文字程度を予定していた試論は取り掛かっていませんでしたので、そう仰っていただき助かりました。
私がイメージしていた〈私〉は哲学者が色々なところで「私」と書いていますが、下記に好例がありますので引用し、その下に小論の概観だけ記述しておきますね。
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デカルトもパスカルも「私」の視点から世界を見ることを一度は発見した。ところが、神的(視点忘却的)視点から世界を見る存在観が残っていると、この存在観に舞い戻ってしまう。これを防ぐのが、世界の存在に対する「判断中止」(エポケー)である。世界があらかじめ存在している、「私」もその一部として存在している、という信念にコミットせず、宙吊りにしておくのである。
この存在論的問題を踏まえたうえで、フッサールは続けて言う。「哲学者にとって・・・・・・「客観としての世界の中の主観性」であると同時に、「世界に対する意識主観」であるということの相互関係のうちにこそ、それがいかにして可能かということを理解すべき必然的な理論的問題が存しているのである。」
(中公クラシックス版 『フッサール デカルト的省察』前書きより)
***** 以上引用終わり *****
同書の翻訳は船橋弘氏ですが、前書きについては、哲学者の谷徹氏が39ページに渡っての長文で「フッサールの問いは終わらない」というタイトルで述べています。(※翻訳は岩波文庫版 浜渦辰二訳『デカルト的省察』の方が断然読みやすいので、これから読んでみようという方には岩波版のほうをお勧めします。)
以上の、デカルト、パスカル、フッサール、(おそらくウィトゲンシュタインも)によって発見された「私」の視点ですが、裏を返せば、上記の哲学者以外は気づかなかった可能性があります。なぜ頭脳明晰な西洋哲学者たちが気づけなかったのかについては後述します。
そしてフッサールはその「私」の視座世界に現象学のすべてを還元しようとした。しかしその視座では「私」は存在しないし一切の言及ができない。(ウィトゲンシュタインが「『私の見た世界』という本があるなら「私」には言及できない」と述べていたとおりです。
上記の4名が語るに語れない「私」というのが、私の〈私〉観念です。
彼らが、その視座では「私」が使えない、しかし存在論上では「私」は在る、という矛盾状態の「私」のことを、私は〈私〉としています。
上記のとおりフッサール現象学では存在論上の「私」の視点をエポケーするのですが、私はエポケーせず、上記視座の私は存在しない、存在論視座の実在の私は確かに存在する、またもう一つの観念論的視座(パニチェさんが〈私〉と世界を俯瞰した視座です)の「私」は変質した言語になっているが私の存在を許容する、という立場をとり、三視座の矛盾をそのままにどこまでも純化します。
その上で三視座の上から見下ろす第四の主観視座によって、その三視座構造が作りだす三つの関係性を吟味、省察し、その上で上記の一つの視座へ還元します。
この三関係性においては、通常、三視座の統合を目指す同一性がはたらいており、その同一性は、実在視座と観念視座の認識による価値に根源をなし、上記の私が存在しない視座に還元され価値に対する欲求となり意志となる。
この同一性は無意識下にはたらいているため、人は「自分は一つの視座で世界を見ている」と感覚しています。三視座に気づきません。哲学者でさえ、この三視座のダイナミズムの自覚なく、存在論や認識論を著述している部分があると私は考えています。
「自分の中の三視座におけるロジックの整合性をとりたい」と無意識の中で同一性をはたらかせるのは人間に於いて当然であり、私のように、それぞれを純化して、「自己内矛盾大いにけっこう、第四の主観視座でまとめる方が良い」と考える変人は少ないのかもしれませんね。
今の私は〈私〉については上記と認識していますので、次の段階として、この同一性を力動的観点、発生的観点から捉え直すことの考察が中盤に差し掛かっているという段階にあります。
作成したチャートに関してはニーチェクラブでは掲載しないことに決めましたが、いずれ私の個人サイトで使うことが出来ますし、ビジネスとしてもコンサルティングにに活用できるので、作成についてはお気遣いなさらないようお願いいたします。要請されたわけでもなく、祝意として今週末を目指し勝手に作成していただけですので。
>>「愛してる」と「愛している」の語感の違いを説明できますか? > > 感覚的には「愛してる」は無自性で、「愛している」は自性を伴うような感じはします。 > 「痛い」と「痛みがある」との違いに近いかな。。。
こうして「愛してる」と「愛している」の違いを感覚でき説明を試みることが出来るのは何故でしょうか。英語訳では I love you フランス語訳では Je t'aime としか書けない。それは「愛している」のほうです。
「愛してる」という語感表現は、インド・ヨーロッパ言語圏では表現できません。
ウィトゲンシュタインが限界としたところがなぜ私には限界ではなかったかというのは簡単な理由で、ウラル・アルタイ語圏の日本文化に育った日本人だったからというだけです。
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ウラル・アルタイ言語圏(そこでは主語概念がいちじるしく未発達である)の哲学者たちがインド・ゲルマン族や回教徒たちとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩きつつあるというのは、大いにありうることであろう。
(ニーチェ『線悪の彼岸』20番)
***** 以上引用終わり *****
主語概念が未発達な地域はともかく、日本の場合は武士の「拙者」や「われ」「わ」という主語は発達しており、この間接主観的一人称を省略するのではなく、禁じて表現する場面があり、一方で一人称を使用する場面(こちらは省略有)と使い分けてきたということです。
『善悪の彼岸』では他にも、30番や54番など(他にもあったかと)でニーチェが自分の言語圏では捉えられない「視座」について触れている箇所があります。今更ながらその慧眼ぶりには脱帽です。
※「 I 」を無くすことのできない文化のなかで、ミードは I(主我)について、「新生児は自己の周囲の社会的対象すなわち他者とのコミュニケーションを通して、次第に未組織な主我を組織化していき、ここに主体性としての主我が成り立つ。共同体の態度・期待・役割を内在化させた自我の部分を客我(me)とよぶ。主我は絶えずみずからを対象化(客我化)していく。」と述べています。
以上が私の〈私〉ロジックに対する概観であり、「それは〈私〉ではない」と拒否されているのですから今後は上述の小論について当掲示板で触れることはありません。同意、反論、共感、理解、不理解の別、などは必要としません。パニチェさんとは異なったことは残念ですが、もし参考にできるところがあって、今後のパニチェさん固有の「〈私〉論」に生かしていただけるのなら望外の幸せです。
詳細について省くため、存在論と認識論の手段化についても省きます。
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