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■530  Re[9]: 主体としての〈私〉からの景色
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/07(Sat) 11:54:16)
    こんにちは!

    返信は順不同になります。


    > ここ是非聞きたいのですが、以前にダンザさんと会話した時にはギャップを感じたんですが、今回は(今ところ)さほどギャップを感じません。

    〈私〉についての考察動機は、自分のサイトで進めているテーマでアイデンティティを扱い〈私〉の問題に近いなと閃いたからです。「〈私〉が在るかないか」ではなく、「〈私〉がなぜ在るか」でもなく、「〈私〉は在る」と断定するところから入ってます。それは、パニチェさんが「在る」と言い切っているからで、彼がそう言い切るならば在るんだろうと。長い付き合いなので「〈私〉は在る」の断定的な完全肯定を前提として仮設しているのでギャップを感じないのかもしれません。


    > で、〈私〉は他者に伝えようがないし、教えたくても教える術がない。ダンザさんは、どういう手法あるいはアプローチ、または何をもって〈私〉に接近したのでしょうか?

    そうして「〈私〉は在る」を強行的に前提にしてみると世界の景色が変わってきた。以前には見えなかった景色が見えてきた。Panietzsche Room の「探究」の読みかたが変わってきた。すると不思議なことに、前のレスの時点では〈私〉の感覚も体験も無いと書きましたが、この一週間で、感覚の体験で思い当たる処が出てきました。もしかしたら自分の誕生日ごとに経験する、他人には理解できそうもない純粋認識の体験かなと。禅の“すがた”が独我論的で、多少その心得が身についていたことも〈私〉に接近しやすい下地になっているのかもしれません。

    以上ですが、問いへの答えになっていますか?


    大森荘蔵が次のように述べています。

    【哲学の根本性は「なぜ」を連発するところにあるのではなく、人間の経験全体の根本的事実が「いかに」あるかを見定めようとするところにある。】(『物と心』)

    これに習い、〈私〉は「いかに在るのか」についてブレイクスルーを待ちたいと思っています。その点で禅の公案はカニッツァの三角形的に〈私〉を体験できる一つの手段になるかもしれないというのが私の見立てです。

    パニチェさんは公案に取り組んだことはありますか?


    > 世界と同じように〈私〉を客体として俯瞰できるとは思えないのですが、逆にダンザさんが俯瞰できると考えてるところをもう少し詳しく教えてもらいたいです。

    ここは私の書き方が悪かったので齟齬をきたしています。私は自分自身が俯瞰できるとは書いていないつもりだったのですが。(俯瞰できないということでもありませんけれども)

    >今回のダンのレスで思い付いたんだけど、〈私〉のいる位置ってのは円錐の先端のような尖ったイメージではなく球面(底)のようなものではないかと閃いた。

    「(世界が)円錐で〈私〉が先端」「(球が世界で)球面(底)が〈私〉」という記述を読んで、世界と〈私〉を同じ絵へと対象化(客体化)していることをもって、私は(自我からの)俯瞰と解釈したのですが違っていたようですね?


    ところで、「比類なき先言の〈私〉」についてですが、これを書いた人(パニチェ氏)にとってですが、(読んだ人にとってもそうだと思いますが)、〈私〉を対象化している、〈私〉を客体化している、〈私〉はobjectになっている、と解釈するのが自然だと思いますし、私はそれで全く問題ないとも思っています。「比類なき先言の〈私〉」というテーマ自体もobjectとして提起されている、で良いのではないでしょうか。

    確かに〈私〉は独我論によって成立している個人固有の問題であるに違いありません。でも独我論によって成立している〈私〉を独我論で考察しなければならないということではないと思うのです。むしろ独我論であれば、一人部屋に鍵をかけてその中で自己満足のために考える。一切外部へ向かって主張しない。他人との対話は成立しない。拒否する。ということになるのではないでしょうか。

    なので、いろいろな思想を(独我論とは正反対の思想も)手段として自由に活用したり、脳科学や生物学、物理的なこととして捉えてみたり、他我や禅の手法を用いたりしてどこかでマッチングするのを待ってみたりと、そういうふうに私は考えているのですが、パニチェさんとは違っていますか?


    > すみません、ここは私が理解できていません。
    > 次の段階で消えるところが分からないのと、「「先言の〈私〉」が確信的に存在している」というのが「はじめに“我”ありき」という意味なら分かります。

    以前の私からのレスは下記でした。

    >> すべてが自己意識の中に内在しているとすれば、「世界」という枠の概念も無くなる。
    >> 世界という概念は「一部と全体」の枠組みの全体であったので、一部も無くなる。
    >> <私>という「一部の点」 もなく、開闢も何もなく、初めから表象のみがある。
    >> そうすると初めも無い。終わりも無い。「死」という観念も消失することになる。
    >> 「生」もない。
    >> 「<私>とは何者か」と質問する存在は消滅する。

    私は帰納的にロジックを掘り下げていて、「はじめに“我”ありき」の演繹には触れていません。別の角度から演繹として考察することも可能だと思います。たぶん私は無意識のうちに禅的に帰納ロジックの全体を一気に直観してしまっているので、理屈が追いついていません。

    少し時間をください。
    今考えているのは、純粋認識の段階で先言の〈私〉が在ることを確信しているのと、更に深層へ降りると純粋意識の段階で世界=〈私〉として同化してしまうことによって、〈私〉が消える。こんな感じのイメージなのですが。



    その他に頂いたレスですが、まずは、考えてくださり本当にありがとうございました。一つ一つについては理解し了解するところであります。

    しかしどうも私の質問の仕方に問題があったり文章に言葉が足りなかったり飛躍があったりで、対話に齟齬をきたしているようなので、せっかく時間と労力を使って考察していただいたところ申し訳ないのですが、機会と質問を改めさせてください。

    特に「主体としての〈私〉からの景色」は今の段階では不適切でした。


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