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■524  主体としての〈私〉からの景色
□投稿者/ Danza Espanola -(2018/07/01(Sun) 22:14:27)
    約2年ぶりのニーチェクラブへの投稿記事になります。
    ご参加の方々にはご無沙汰してしまっています。

    パニチェ氏との建設的議論の場としてでこちらのトピックを使わせていただきますが、本論にかんしましては、個人的には、新規の方でもどちらさまでも異論反論同論の横やりは歓迎しますのでよろしくお願いします。


    No523に返信(パニチェさんの記事)
    > のっけからハードプロブレムやね。一緒に考えるためのテーマやと思うけど。まずは訂正や撤回ありきで答えてみます。
    > 物理的な他人は物と一緒、“我をもった他者”は人間としての存在、他者の“我”自体は地平の彼方、その存在も存在様相も厳密な意味では不可知だけど、自分の“我”自体の存在様相と同じようなものとしての想像は容易やし、日常生活はその存在様相を前提としてコミュニケーションをはかっている。

    1.物理的な他人は物と一緒。
    2.“我をもった他者”は人間としての存在。
    3.他者の“我”自体は地平の彼方、存在も存在様相も厳密な意味では不可知だが自分の“自我”と同様に他者の“自我”(他我)は、(独我論的には)想像表象によって存在している。

    という感じでしょうか。初期段階として。
    認識の変更や撤回はどんどんやっていきましょう。

    私的には宙ぶらりんの留保状態ですが、2または3を主体とし、別の2または3を客体としたときに何が言えるのか、1.2.3.ともに「個」と「集合体(ある集団)」とでは何が変わるのかに関心があります。何か気づいたことがあれば教えてください。

    「他者」を西洋哲学の根本問題として初めて取り上げたのがフッサールで、以降、レヴィナスやメルロ・ポンティらによって現代哲学のテーマにもなっているらしい。私はフッサールしか読み始めていませんが。根っこにあるのは「われ思う故にわれあり」のデカルトの独我論です。

    <私>というテーマはフッサール現象学と相性がよいと感じています。
    少しずつやっていきたいと思います。


    > それはそうでしょうね。自我の形成には他我は必要ですが、それは万人に共通する自我であって〈私〉ではない。
    > 多分、独房に一人閉じ込め飯だけを与えられていた少女や少年にも〈私〉は成立している。
    > この違いは前者は言葉の後に成立する自我であり、後者は言葉に先立って(先言)成立している〈私〉


    ところで、まず先にパニチェルームの「探究」>「<私>の哲学」から引用させてもらいますね。

    >正直なところ「比類なき先言の〈私〉」は上記を間接的に示していると直観的に感じるのである。但し、これは思惟によるものでもなく論理的な思考の結果ではない。

    まず一点目として、<私>は感覚的体験的に直感(ここでは直観でなく)として「確信的に」在ると感じているということだと思います。間違っていますか?私には<私>への感覚も体験もないのですが、逆に、ようやく関心をもつことができ、論理的に理解が進んでいます(進んでいると思い込んでいるだけかもしれませんが)。


    二点目です。(三点目もあると思いますが今回は触れません)

    >純粋経験の主体者を想定するかどうか?
    >また想定するとすれば、その主体者とは、誰にでもあてはまるような「私」ではなく、特化された世界を観察する特異点としての〈私〉とするか?

    ウィトゲンシュタインの引用も読んでいます。共通して言えるのは、世界(実在現象的表象全部)と<私>(特異点や限界点)を《自我「私」》が対置させているところで、その表象全部の中に<私>を含めないが、《自我》を主体とする視座は「世界」と〈私〉を客体として俯瞰している、ということになると思いますが間違っていますか。(俯瞰という言語に抵抗があれば別の言葉でもかまいません。意味は解ってもらえると思います)


    本論のほうの引用についてですが、私の独我論についての議論において、どこまでも透徹した独我論であれば、その中間課程では、言語は消えることになります。クオリアだけと言いますか、イメージだけと言いますか、自然をそのまま、意味も価値も付与せずにありのままに受容する「主体」だけがいるのです(次の段階では「主体」も消えますが)。

    つまり、その時点では、言語化される前の「先言の〈私〉」が確信的に存在していると考えています。


    そこで質問なのですが(私も考えるのですが)、《自我「私」》を主体とし、〈私〉を客体として考える、その思考パラダイムを転倒させて、〈私〉を主体とし《自我》を客体とした場合に、《自我》は〈私〉からどう観られていると思いますか?

    次は直観知性的想像力を爆発させなくてはなりませんが、主体とした〈私〉からは、《自我》や「実在表象の景色」はどう観えていますか?

    ここでは、〈私〉が主体となっているため、客体としての私の自我は、冒頭の3での他我自体へ変容するのではないかと考えています。(この景色のために冒頭の質問をさせていただいた面もあります)



    > 確かに。でも風車に挑むドンキホーテになっても結果的には構わないとも思っています。
    > 言語と論理による見証悟道ってのは、虫取り網で空気を捕まえようとする試みかも(笑)

    見証というのは道元の言葉なのですね。goo国語辞典では見証(けんぞ)となっていて全然別の意味が書かれています。見性とは違うのでしょうね。

    禅の思想はインドの「座禅」を抜きにすれば、つまり中国禅的に禅を言えば、独我論に限りなく近いと思います。公案も独我論的公案が多いですよね。ご存知かもしれませんが禅の基本的な取り組みかたとして「直指人心見性成仏」という禅語があって、この「直指人心(じきしにんしん)」とはまさしく、直観によってストレートに〈私〉を見つめることと同じことではないかと考えています。
    ただ、私としましては直指人心は不得意なので、間接的に論理とイメージによっての手法をとります。

    禅思想からの〈私〉へのアプローチも並行して考えてみたいと思います。


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