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■523  風車に挑むドンキホーテ
□投稿者/ パニチェ -(2018/06/30(Sat) 09:32:29)
    No512に返信(パニチェさんの記事)
    > 以下はdanza_espanolaさんからの返信(2018/6/24, Sun 06:24)

    > 言いたいことは分かっているつもり。
    > そのうえで質問します。(私も一緒に考えたい)
    > 「物理的な他人」と「”我”をもった他者」と「他者の”我”自体」、それぞれを相対比較した、パニのいう存在様相的な相違性についての見解を聞きたい。

    のっけからハードプロブレムやね。一緒に考えるためのテーマやと思うけど。まずは訂正や撤回ありきで答えてみます。
    物理的な他人は物と一緒、“我をもった他者”は人間としての存在、他者の“我”自体は地平の彼方、その存在も存在様相も厳密な意味では不可知だけど、自分の“我”自体の存在様相と同じようなものとしての想像は容易やし、日常生活はその存在様相を前提としてコミュニケーションをはかっている。

    > 私の拙いロジックがヒントになったのなら嬉しい。
    > ここは、「表象」の立体構造を可能とするところだと思う。

    同意。

    > >> ただ、独我論の他我を認めないということについて言えば、意味や価値のすべてを自分自身で創造したという点で無理があると思うんだけどど うだろう。
    >>ごめん、ここもうちょっと詳しくお願いします。多分、読み取れてないわ。
    > 独我論モードにおける表象について、現在にかんする感覚的な実在表象ではなく、
    > ここでは、記憶を基にする内側から湧き上がってくる表象のほうを対象にします。
    > 独我論においても、「自我の成り立ち」「過去の自己と現在の自己との同一性」といった過去との関係は「無かった」とは言えないし。
    > 「自分のルーツや自分が自分であるというアイデンティティ」、「社会が”我”に与えた様々な意味」、「価値への欲求」「他者への感情」など、
    > 避 けては通れない哲学的な問題の数々が横たわっていると思うわけです。

    同意。

    > そのひとつひとつにたいして、他者の「自我」のかかわりなしに、自身の自我の形成が為された、自我が他者に反応する、とは言えないのではないか。
    > 独我論を強引に、今だけである、表面上の現象だけである、とするのならば、あまりに浅く軽くなってしまうしそうではないのではないか。
    > ということで、他我を認めない独我論は無理があるんじゃないかと考えているということです。

    それはそうでしょうね。自我の形成には他我は必要ですが、それは万人に共通する自我であって〈私〉ではない。
    多分、独房に一人閉じ込め飯だけを与えられていた少女や少年にも〈私〉は成立している。
    この違いは前者は言葉の後に成立する自我であり、後者は言葉に先立って(先言)成立している〈私〉

    > 日常的なテーマとはフィールドが違う、という感覚はわかるし同意できる。
    > ただそのなかで、日常リアルを連想しつつ考察しているという事実もあるのではないだろうか。

    同意。

    > 確かに言語的には限界があるのは同感だけれども、それでも、その限界まで本当にやり切っているかと言えばそうではないと私は考えています。
    > 徹底的に、ここが限界だと一時的にはそう思っても、なんとかして突破口を開いてやろうと。
    > 自己探求の道というベクトルはわかるけれども、私のベクトルはどうしても抽象論化へ向かい、内省的には厳しいところが正直あります。
    > でもそれ は、同床異夢ではなく、異床同夢のようなものかと思っていて、だからパニとのレス交換が有意義なのだとも思う。

    ありがとう!同意です。私にとってもめっちゃ有意義です。

    > 岩波哲学思想事典の「自我」の項目によれば(長文で2000文字以上あるので引用はできないけれど)、西洋哲学の「自我」とインド哲学の「自我」には乖離があって、そのことを今、簡単に知ることが出来る我々は、先学の恩に報いるためにもステップアップした論理を建設していかねばならないのではないだろうか。少なくともその気概だけは持たないと先学に対して礼を失するように思っています。

    確かに。でも風車に挑むドンキホーテになっても結果的には構わないとも思っています。
    言語と論理による見証悟道ってのは、虫取り網で空気を捕まえようとする試みかも(笑)
記事No.507 のレス /過去ログ1より / 関連記事表示
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