| > 「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より」
ヴィトゲンシュタインがここでいう、人間の言語には「真に現前している経験」があるということがあらわれてはこないということ、それにはまったく同意。例えば「いま食べているバナナは甘い」「右の足がすごく痛む」といった言語表現は、真に現前している経験と交わるものをもたない。ほんと持ちようがないと思う。たまたまこの表現が拙いのではなく、天才詩人による絶妙の表現でも同じです。言語は基本的に経験の外にある記号です。 音楽に没入して聴くとき「真に現前している経験」は聴こえている音楽それ自体でしょう。聴こえている音楽を言葉やイメージなどに置き換えることはできない。これが音楽の特殊性だと思う。そういえば永井均氏もエッセー集の中で、もっとも愛好する趣味としてクラシック音楽鑑賞をあげていたのを思い出しました。ここでカキコした理由によるかは不明ですが。 |