| 2023/07/08(Sat) 22:44:16 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
久しぶりのカント沼、沼浴びです(/・ω・)/パシャパシャ
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて
□全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き 第二節 (第九項) 判断における悟性の論理的機能について
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1 判断の量=kQuantitaet der Urteile.〕 ・全称判断 〔Allgemeine〕 〔すべてのAはBである〕 ・特称判断 〔Besondere〕 〔あるAはBである〕 ・単称判断 〔Einzelne〕 〔ある一つのAはBである〕
2 〔判断の〕質=kQualitaet.〕 ・肯定判断 〔Bejahende〕 〔AはBである〕 ・否定判断 〔Verneinende〕 〔AはBでない〕 ・無限判断 〔Unendliche〕 〔Aは非Bである〕
3 〔判断の〕関係=kRelation.〕 ・定言判断 〔Kategorische〕 〔AはBである〕 ・仮言判断 〔Hypothetische〕 〔もしAがBなら、CはDである〕 ・選言判断 〔Disjunktive〕 〔Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである〕
4 〔判断の〕様相=kModalitaet.〕 ・蓋然的判断〔Problematische〕 〔AはBかもしれない〕 ・実然的判断〔Assertorische〕 〔AはBである〕 ・確然的判断〔Apodiktische〕 〔AはBでなくてはならない〕
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◆ 3 判断における思考の全ての関係は、 a)述語の主語に対する関係、 b)根拠の帰結に対する関係、 c)区分された認識とその区分の全選言肢との相互関係 である。
第一の判断様式〔述語の主語に対する関係〕においては、〔主語と述語という〕二つの概念だけが考察され、 第二の判断様式〔根拠の帰結に対する関係〕においては、〔根拠を述べる判断と、帰結を述べる判断の〕二つの判断が考察され、 第三の判断様式〔区分された認識とその区分の全選言肢との相互関係〕においては、〔互いに〕対立関係にある多くの判断が考察されている。 〔例えば、〕「完全な正義があるならば、常習の悪人は罰せられるだろう」という仮言命題は、もともと、「完全な正義がある」という命題と、「常習の悪人は罰せられる」という命題との二つの命題の関係を含んでいる。 これら二つの命題のいずれもが、それ自体で真であるかどうかは、ここでは決定されないままである。 この判断によって思考されるのは、その帰結だけである。 最後に、選言判断は、二つ、或いはそれ以上の諸命題の対立関係を含むが、この関係は根拠から帰結への関係ではなく、一方の命題の圏域が他方の命題のそれを排除する限りにおいて、論理的対立の関係であり、しかも同時に、それらが合して本来の認識の圏域を充たす限りにおいて、相互性の関係である。 それ故、その関係は一つの認識の圏域の諸部分の関係である、というのも、それぞれの部分の圏域は、区分された認識を全体的に総括するために他の部分の圏域を補足するものであるからである。 例えば、「世界は盲目的な偶然によって現存しているか、さもなければ内的な必然性によって現存しているか、さもなければ外的な原因によって現存しているかである」という選言判断において、そうである。 この選言判断におけるそれぞれの命題は、世界一般の現存在に関する可能な認識の圏域の一部分を占めており、全てが合してその全圏域を成す。 それらの諸圏域の一つから認識を除去するとは、その認識を残余の諸圏域の一つの内へと措定することに他ならない。 これに反して、認識を一つの圏域の内へと措定するとは、その認識を残余の圏域から除去することに他ならない。 それ故、選言判断の内には諸認識の或る種の相互性があり、この相互性は、それらの諸認識が互いに排除し合いながら、しかもそのことによって全体として$^の認識を規定するが、それは、それらの諸認識が一緒になって唯一の与えられた認識の全内容を成すからである。 そして、このことは、次節のためにこの際注意しておく必要があると、私が認めるものですらある。
--- No.31146からの続き ---
◇ 4 判断の様相〔Die Modalitaet der Urteile〕は、判断の全く特殊な機能であって、この機能は判断の内容には何一つとして寄与せず、(なぜなら量、質及び関係以外には、判断の内容を決するものはもはや何も無いからである。) 思考一般〔das Denken ueberhaupt〕との連関における けい辞〔Copula〕の価値だけに関わるという特質をそれ自体で持っている。
◇ 蓋然的〔Problematische〕#サ断〔AはBかもしれない〕は、肯定または否定〔das Beiahen oder Verneinen〕が、単に可能的〔moeglich〕(任意的〔beliebig〕)とみなされるときの判断である。 実然的〔Assertorische〕判断=kAはBである〕は、肯定または否定が現実的〔wirklich〕(真〔wahr〕)とみなされるときの判断である。 確然的〔Apodiktische〕判断=kAはBでなくてはならない〕は、肯定または否定がそこでは必然的〔notwendig〕≠ニみなされる判断である。〔註〕
註: あたかも思考は、第一の場合には悟性の機能であり、第二の場合には判断力の機能であり、第三の場合には理性の機能であるかのようである。これは後になって初めてその解明が期待される注意である。
◇ それで、それらの関係が仮言判断〔hypothetische Urteil〕〔もしAがBなら、CはDである〕を形成する二つの判断(前件antecedensと後件consequens )、同じくそれらの相互作用によって選言判断が成立する諸判断(諸選言肢)は、ことごとく蓋然的でしかない。
◇ 前述の実例においては、「完全な正義がある〔es ist eine volkommene Gerechtigkeit〕」という命題は、実然的に主張されているのではなく、誰かがそう想定することが可能であるような一つの任意的な判断としてのみ考えられているのであり、ただ後件のみが実然的なのである。
◇ だから、そうした判断は明白に偽でもあり得るが、しかし蓋然的に解すれば、真理を認識するための条件でもあり得る。
◇ 同様に、「世界は盲目的な偶然によって現存する〔die Welt ist durch blinden Zufall〕」という判断は、前述の選言判断においては、蓋然的な意味しか、つまり誰かがこの命題を多分一瞬は想定するかもしれないという意味しか持たないが、しかし(私たちが取り得る全ての道のうちで、この道は誤っていると明記するように)、真なる命題を見出すのにも役立つのである。
◇ それ故、蓋然的命題〔「AはBかもしれない」〕は、単に論理的可能性(客観的ではない可能性)を表現するような命題であり、換言すれば、そうした命題を妥当せしめる自由な選択を表現するような、そうした命題を悟性の内へと単に随意に取り入れることを表現するような、そうした命題である。
◇ 実然的命題〔「AはBである」〕は、論理的現実性または真理について主張するものであって、それは、例えば、仮言三段論法において、大前提における前件は蓋然的に現われるが、小前提における前件は実然的に現われ、だからこの命題は悟性の諸法則に従って悟性と既に結びついているということを暗示しているような命題である。
◇ 確然的命題〔「AはBでなくてはならない」〕は、実然的命題を、悟性自身のこれらの諸法則によって規定されたものと考え、だからア・プリオリに主張するものと考え、このような仕方で論理的必然性を表現する。
◇ ところで、この場合全てのものは順次、悟性と同化し、かくして、まず或るものが蓋然的に判断され、ついでそれがおそらく実然的に真とみなされ、最後に、悟性と離れがたく結合しているものとして、換言すれば、必然的で確然的なものとして主張されるので、様相のこれら三つの機能はまた、思考一般の三つの契機とも名づけられ得るのである。
† 原佑訳上巻、p.217〜p.219参照。 † その他に、中山元訳2、p.62〜p.65、石川文康訳上巻、p.131〜p.132を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874、 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
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