| うましかさん、こんにちは!
■No27785に返信(うましかさんの記事) > pipitさん、こんばんはー > > おひさしぶりですー( ノД`)シクシク…<
書き込みすごーく嬉しいですヨ (o^^o)♪
> あいかわらずカントに戻れない日がつづきますが > > 今夜はpipitさんご紹介の論文を読みながら、おもったことなどを… > > ******* > > ■No27715に返信(pipitさんの記事) >>『カントにおける規則としての数概念と算術的判断の総合性』 >>片山光弥さん >>http://japanische-kant-gesellschaft.org/data/kant23/02_ronbun_katayama.pdf >> > ******* > > 片山の論文16頁には、カントの以下のような引用があります。 > > >なるほど、はじめは次のように考えられるかもしれない。7+5=12という命題は単に分析的な命題であり、この命題は七と五の和の概念から矛盾律に従って生じる、と。 > > うましかは、そもそもこれがわからない(´;ω;`)ウゥゥ > > 「命題"7+5=12"は、7と5の和の概念から矛盾律〔Aでありかつ非 Aであることはない:〜(A∧〜A)〕に従って生じる」とはどういうことなのか? > > カントは「はじめは、次のように考えられるかもしれない」と述べていますが、これはそのように考えることが(少なくともカント以前から同時代に至る考えでは)一般的だろうと言っているように、私には読めますが、実際どう論じられていたのかなあ(;´・ω・)<
第二版序論を見返すと、B14から17あたりに、『数学者の推論はすべて矛盾律にしたがって進行すること(略)が知られていたので』とか、『[数学の]原則もまた矛盾律によって認識されるであろうと信じ込まされていたから』などの文言(宇都宮芳明先生訳、上、p55-)がありました。
カント自身の矛盾律の定義が、純理の時点でどのようなものかはpipitにはわからないのですが、純理以前に書かれた論文『判明性』では、真なる〈否定判断〉の最高原理として矛盾律を「いかなる主語にも、それと矛盾する述語は属さない」と定式化したとありました。 (『カント事典』弘文堂、p496、497【矛盾律】参照)
7+5=12は、アプリオリな分析判断... 7+5に12は含み済み、と、当時(も現在も?)みなされてた(る)ということなのかな??
矛盾律に従う数学では、 7+5に矛盾しないのは、12の時、 7+5=12は真の命題ということなのかな??
( ̄  ̄)?
> あと、 > > >7 と 5 の和の概念は、両者の数をひとつの数へと統合することより多くのことは含んでおらず、このことによっては、両者をまとめるこの単一の数がどのようなものであるかは断じて思考されないことが分かる。十二という概念は、私が単に七と五のかの統合を考えるということによって既に思考されているわけでは決してなく > 〔同,16頁〕 > > カントは「和」の概念とは「両者の数をひとつの数へと統合すること」だとしていますが、複数の数を、"ひとつの数"へと「統合」するという、この考え自体が、例えば数7に続いて、8,9,10,11,12という5回カウントするという手続きなんじゃないかなーなどと考えています。<
そうですねー、とりあえず、7の中身と5の中身の統合を、片山光弥さまは、
「@@@@@@@*****」と表現されてましたね。
それを、
『ひと続きにたとえば「oooooooooooo」という形象を構成するというものであり』
として、同種の数え上げに変換する。 この変換が直観を介して行われてるということなのかなぁ??
今、西先生の文言を思い出したんですけど、 『「3に2を加える」というのは作業の指示にすぎません。』(『100分de名著 カント純粋理性批判』西研、p53) と、『指示』という表現をされていました。
統合せよ、と指示が出て、うましかさんもpipitも悪魔ちゃんも?一応同じ答えが出るとするなら、どの場でどのようにカウントしているのか、という共通環境が、各個人の純粋直観という場なのである、というのがカント流の考え方なのかなぁと、今のところ思いました。
> そもそも「和」の概念といったって極端にいえば、任意じゃないかな、と、、、<
ルールとして設定されるもの、な気がしますもんね。
> さんすうの苦手なうましかはそうおもうのでした。。。(;´・ω・)沼<
わたしもさんすう苦手なのですが...わからないのですが....カント先生のユニークさはおもしろいなぁと思っています (о´∀`о)沼
うましかさん、ありがとうございます。 寒くなるのでどうぞご自愛くださいませ! |