HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

ログ内検索
・キーワードを複数指定する場合は 半角スペース で区切ってください。
・検索条件は、(AND)=[A かつ B] (OR)=[A または B] となっています。
・[返信]をクリックすると返信ページへ移動します。 (*過去ログは表示されません)
・過去ログから探す場合は検索範囲から過去ログを選択。

キーワード/ 検索条件 /
検索範囲/ 強調表示/ ON (自動リンクOFF)
結果表示件数/ 記事No検索/ ON
大文字と小文字を区別する

No.23582 の関連記事表示

<< 0 >>
■23582    『人類学的思考の歴史』
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/05/29(Sun) 16:17:21)
    植民地についてネットで調べたのは、『人類学的思考の歴史』のなかに書いてあったから。
    その一節を書き写して見ます。

                 ***************

    3 アンデスのキリスト教と悪魔崇拝 p316−

    最初にとりあげるのは、アメリカ合衆国の人類学者マイケル・タウシグが論じるアンデス先住民世界と世界システムの関係である。16世紀に中央アメリカおよび南アメリカを征服したスペインは、旧インカ帝国が保有していた金をはじめ、銀や銅、錫などの地下資源に注目した〈6〉。スペインは過酷な労働にインディオ〈7〉を動員することでその人口を十分の一にまで激減させたとされるが、現地の人びとが世界経済への包摂過程をどのように概念化したかを、とくに宗教世界の変化に焦点を当てながら論じているのがタウシグの『南部における悪魔と商品フェティシズム』である(Taussing1980)。かれがここでとりあげているのは、コロンビア南部のプランテーション農民(*1)における悪魔崇拝と、ボリビアの錫鉱山で働く鉱夫たちの悪魔崇拝である。

    p317タウシグによれば、世界システムの包摂される以前のアンデスの農民経済を支配していたのは、共同体を単位とした贈与交換の経済(*2)であった。そこでは人間と自然とはおなじコミュニティを構成し、両者のあいだには交換を媒体とした相互交渉の世界が存在すると考えられていた(ibid.:155)。しかしながら、プランテーション農業のかたちであれ鉱山開発のかたちであれ、貨幣と賃労働の導入は共同体的な生産関係を大きく変え、その外部へと切り出される諸個人を生み出した。コロンビアのプランテーション農園で働く農民たちは、仲間には内緒で悪魔と契約することで、仲間の水準を超える高い収量と賃金を手にすることができる。しかし、そうして得られた賃金は土地や家畜などの生産財には投資できないので(たとえそうしたとしても、それらは不毛になるはずである)、やがて必然的に死と不毛に襲われていくという(ibid.:133)。互酬的な共同体から乖離と功利主義的な精神の選択が、悪魔との契約として周囲からは解釈されるのであり、このようにして人びとは資本主義的なハビトゥスの導入を断罪しているというのである(ibid.:135)。

    タウシグがさらに力を入れて論じるのは、ボリビアの錫鉱山で働く鉱夫たちのケースである。スペイン人が到来する以前、アンデスの農民たちがおこなっていた自然の崇拝は、スペイン人神父にとって悪魔崇拝として禁止された。後者はその祭壇を破壊し、祭祀に用いられていたミイラや儀礼的道具を解体したため、インディオたちはそれを集めて祭壇のようにし、崇敬のためにその上に十字架を立てた。しかしそれを発見した神父たちは、それを暴いて粉々に粉砕したので、インディオたちはその破片を集めて地中に埋めることを余儀なくされた。スペイン征服以前には悪魔の観念はアンデスには存在しなかったが、人間によって祀られなくなった自然の神々は、これらの祭祀の破片がそうであるように、地下で再生する破壊と飢えと血を求める悪魔みなされるようになったというのである(ibid.:172sq)。

    今日もなお共同体的慣行の残る農村とは異質な、賃金とノルマを課せられた地下の世界は「悪魔」ティオの管轄する領域とされ、そこで働くインディオたちはイエスの名を口にすることもなければ、十字架を切ることもない。ティオは鉱山の入り口に、錫の鉱石を集めてつくられた「ひとがた」として存在し、そのペニスは直立し、口は人びとの血を求めてつねに開いたままである(ibid.:143)。過去の贈与交換経済の世界では、儀礼を媒体として人間と人間、人間と自然とが直接結びつけられていたが、商品生産の世界では人間のあいだのつながりも人間と自然のあいだのつながりも断ち切られ、鉱夫は悪魔との密接の契約以外のつながりをもたなくなる。その結果、かれらの多くは年季奉公の終わりには、金銭的にも身体的にも最初に鉱山に入ったときより貧しくなり、すべてを失って故郷に戻るというのである。

    p318インディオたちが土地や農具などの生産手段を有していた過去の時代には、アンデスの自然の神々は、農作や家畜や生命や鉱石などの富と、死や不幸や病気などの破壊をもたらす両義的な存在であった。しかし、一切の生産手段を失ったかれらが今日恐れつつ崇敬するそれは、地下世界に追いやられて、破壊のみをもたらす悪魔とされた。このようにして、資本主義的な生産と交換のシステムに同化できない農民や鉱夫たちは、自然の循環から切り離され、もはや自分たちがコントロールできなくなった過去の神々と悪魔と見なすことで、それを忌避しつつ折り合いをつけてきた。その意味で、悪魔崇拝とは、過去の農民的な生活様式と賃労働を中心とした今日の資本主義様式とを媒介する。ある種の認識枠組だというのである(ibid.:17,37)。

    マルクス主義を柱とするタウシグは、賃労働と商品経済の浸透を破壊と見なすロマンチシズムを引きずっており、そのためその記述はある意味で一面的になり、人びとが商品経済の浸透のなかでつくりあげたであろう対抗や変形の実践を見えにくくさせている。

    これに対し、おなじボリビアの錫鉱山をとりあげながら、異なる解釈をしているのがオリヴィア・ハリスである。彼女によれば、農民たちは嫌々ながら貨幣経済に包摂されたのではなく、むしろみずから積極的にそれを望み、それをとりこむことで自分たちの経済と宗教生活を再組織化してきたという。その証拠とされるのが、農民たちが抱いている富と豊饒の神の観念である。

    たとえば農産物を実らせる豊穣の神パチャマナは、一般に「悪魔」ティオの妻と見なされ、祭祀や儀礼の対象となっている(Harris 1989:250)。またティオはカーニバルの中心的存在とされ、もっとも熱心な踊りが捧げられるのもそれである。このようにして、ティオとその妻は単に悪や不幸やカオスや死の根源であるだけでなく、適切な供物が捧げられたなら、富と繁栄を約束する存在でもある。その意味で、ここにはタウシグが述べたような、キリスト教と悪魔崇拝、生産の神と破壊の神の二分割は存在しなのであり、鉱山、農業、牧畜、貨幣等はいずれも富の根源としてアンデスの農民たちに評価されている。かれらはこのようにして商品経済をみずからの生に織り込みながら、自分たちの世界を組織してきた能動的な行為者だとして、タウジグの議論を批判するのである(ibid.:261)。

    註〈6〉
    とくにアンデスが産出した銀は、それまでの金に代わる世界貨幣として各地に流通し、世界の貨幣システムに大きな影響を与えた。工業的に中国やインドに遅れを取り、そのために通貨の地金になる金の流出に悩んでいたヨーロッパが、対アジア貿易で優位に立ち、領域内の農業と工業の発展に余力をまわせるようになったのは、ひとつにはこのアンデスの銀によるものであった(Braudel 1946, Watson 1967)。それはスペインが、最初の超大国として成立するのを助けたのである。

    註〈7〉
    近年では「インディオ」ということばは避けられる傾向にあるが、ここではタウシグの議論の力強さを引き継ぐべく、この語をそのまま用いることにする。

                    ************

    (*1)(*2)はわたし意味が分かんなかったので、ネットで調べてみました。

             ・・・・・・・・・・
    (*1)プランテーション農業plantation agriculture
    熱帯,亜熱帯で行なわれる栽植農業。欧米人が資本,技術を提供し,熱帯の労働に耐え得る先住民や移入労働者の安価な労働力を利用して,モノカルチャー経済を行なう企業的農業経営。

    (*2)贈与(文化人類学)
    一般に、人に物品を無償で与えることを意味する。人に物品を有償で与える場合には、それは売買、交換などとよばれ、贈与行為とは区別される。しかし、ある贈与行為に対して、受け手側から贈り手側に返礼としてなんらかの贈与が行われることも多い。その場合には、結果的にみて、こちらが相手方に与えた物品と、こちらが相手方から受け取った物品との交換が成立しており、最初にこちらが相手方に物品を与えた行為は無償の行為ではなかったと考えることもできる。したがって、無償であるか有償であるかは、かならずしも明確に区別できるわけではない。たとえ返礼を受けたとしても、贈り手がまったく返礼を期待していなかったならば、それは無償の行為であったとすることは可能である。
    人間の行為は,その対象が個人,集団,あるいは超自然的存在,そのいずれであっても,なんらかの応報を求めて行われる。ことに伝統的社会における制度には,人あるいは集団が相互に有形・無形のものを,特定の期待感や義務感をもって,与え,返礼しあうことによって成立しているものが多い。このような意味で,人間の行為の多くは相互的行為,あるいは一種の交換ということができよう。このような行為を動機づける観念,あるいはこの種の観念によって基礎づけられた社会関係を互酬と呼ぶ。
                   ・・・・・・・・・

    長くなちゃたので、わたしのは後で。
記事No.23336 のレス /過去ログ3より / 関連記事表示
削除チェック/



<< 0 >>

パスワード/

HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -