| ■No2350に返信(パニチェさんの記事) > こんにちは。2月になってようやく日本は真冬のような寒さがやって来ました。
こんにちは、英国でもこれから寒くなりそうです。
>>クリシュナムルティの難しいところは「何もしない」ということでしょうか。 >>だから例えば禅のように、座禅等をして無の境地になるという、ある意味目的意識を持った行/動も否定していることなんだと思います。(ただ私は宗教/禅)等もまったく無知なので、訂正していいただきたく思います。 > > 残念ながら、私はJ.クリシュナムルティのことも禅で言われる「無為の真人」や「悟り」に関してもFloraさんのカキコを訂正できるだけの知識がありません。以降はあくまでも私の想像というか推論を述べてみます。 > あるがままの自己や世界が不二で、かつ唯一無二の法(真理)であるとするなら、自己を運んで(小我であるところの自己意識をもって)何事かを為したりすることは、法から遠ざかる行/動となるってことでしょうかねぇ〜。
そうですよね。。。クリシュナムルティはビカミング(なりゆくこと)を否定していますよね。つまり、なりたい自分を設定して、そこに近づくという行程といえばいいのでしょうか? 一方禅では(私の解釈は全く頓珍漢かも知れません)、悟る自分、悟った自分を設定して、その方便が座禅だったり、ムームー言ったり、ということをしていますよね。その部分の兼ね合いというのでしょうか、解できずにいます。なりたい自分には時間が経過しますよね。でも実際は「今」しかないという教えが禅のもありませんか? 私の場合むちゃくちゃ勘違いをしている可能性大なのですが。(-_-;)
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