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■22942  Re[52]: 人類学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/29(Fri) 15:07:51)
    No22883の訳注のつづき

    訳注(iv-1)
    〔「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologieであることことに、本書ではとくに留意する必要がある。訳者あとがき参照。〕

    〔訳者あとがき参照〕ってあるから、そこんところ、書き写して見ます。

    (訳者あとがき)
    〔「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologie(語原はanthropos「ヒト」の学)であることに、本書では特に留意する必要がある。この語はもともと一般には生物学的な人類学、すなわちanthropologie physique「自然人類学」のことを指し、哲学者は「人間学」という意味に使ってきたけれど、両者はほとんど重なり合うことはなかった。アングロ=サクソン系の国国では早くから「民族学」ethnoligieの代わりに、「文化人類学」anthropologie culturelleないし「社会人類学」anthropologie socialeを含めてこの語が用いられてきたが、フランスでanthropologieが社会科学人文科学に用いられるようになったのは、とくにレヴィ=ストロースによるところが大きい。近年では社会心理学、経済学、政治学、精神分析学などの関連領域を含めて、さらに幅広い人間研究に適用されている。しかしながらレヴィ=ストロース自身はとくに本書では、サルトルとの関係もあって、ethnos「民族」に焦点を合わせたethnoligie「民族学」と対比してanthropologieに人間の普遍性全体性の探究として厳密な意味を与えて用いている。それゆえに哲学的な「人間学」と重なり合い、「哲学対人類学」という問題に真正面からぶつかることになる。しかしanthropologieをめぐる議論をしかけたのもサルトルのほうである。『弁証法的理性批判』においてanthropologie structurale(1958)に対置されていることは明白である。(sturactureの形容詞としては、フランス語の造語法からはstracturelの方がより自然である。プラハ学派の用語として言語学でstracturelが用いられてきたために、レヴィ=ストロースはそれを使っているのである。なおサルトルのstracturelとstructuralとの違いについては『レ・タン・モデルヌ』1966年十一月号の構造主義特集――邦訳『構造主義とは何か』みすず書房−―のプロイオンの紹介文参照。)サルトルにとっては実存哲学こそanthropologieなのであって、人類学はethnoligieとしてしか成り立たないと考えている。これが単に多義語による混乱ないしは恰好のよい名前の取り合いではなくして、レヴィ=ストロースの考える意味でのanthropologieとしての人類学の成立つ可能性を否定するものであることは、たとえば次の文でも明らかである。「諸集団の多様性と、各社会の通時的な進化とが、一つの概念論的知の上に人間学(anthropologie)を打ちたてることを禁じている。たとえばミュリア族と現代社会の歴史的人間とに共通の〈人間性〉を発見することは不可能であろう。」(『方法の問題』平井啓之訳、179項)レヴィ=ストロースは、本書において、最終章「歴史と弁証法」のサルトル批判にとどまらず、全編で、サルトルなどが「未開人」についてもっている偏見を打破し、「現代社会の歴史的人間とに共通の人間性」があることを明らかにして、人間学としての人類学の根拠を示そうとするのである。Anthropologieとethnoligieをめぐるこのようなやりとりを考慮に入れないと、サルトルの哲学は民族学者にとって現代の神話の研究に不可欠な第一級の民族誌的資料である(本書300項注)というような文が賛辞ではなくて痛烈な批判であることが理解されない。
     本書では、フィールドワークに基づく人間集団の個別的な観察記述であるethenographieに「民族誌」、その成果を比較研究し一般的モデルを適用するethnoligieに「民族学」、前述のような普遍性全体性の研究であるanthropologieに「人類学」(ときには「人間学」)という訳語を採用した、これはあくまで、この区別が大切な本書の翻訳上の必要があったからであって、我国での用語に必ずしも対応するものでないことは言うまでもない。日本は、自ら人類学者と称する人の一部を含めて、「人類学」という語を人間に関することなら何にでも、きわめて安易に用いる唯一の国である。なお『弁証法的理性批判』の邦訳で「人種学」、「人種誌学」とされているのが本書の「民族学」、「民族誌」にあたる。18世紀末から19世紀始めにかけては、ethnoligieが人種の分類研究(現在の自然人類学の一部)、ethenographieが言語の違いによる人間集団の分類研究を指しており、わが国では明治初期に「人種学」、「人種誌学」の訳語があてられたのであるが、化石的用法を別にすれば、このような使い方は百年間で終わっている。レヴィ=ストロースによる「民族誌」「民族学」などの定義については『構造人類学』邦訳4-5項、311-2項、393-5項、Enciclopedia Italianaのantropologiaの項(Diogeneの90号に抜粋掲載)などに出ている。〕


    a.フィールドワークに基づく人間集団の個別的な観察記述であるethenographieを「民族誌」、
    b.その成果を比較研究し一般的モデルを適用するethnoligieを「民族学」
    c.人間の普遍性全体性の探究であるanthropologieを「人類学」あるいは「人間学」
    って区別しとく。

    サルトルは、
    〔「諸集団の多様性と、各社会の通時的な進化とが、一つの概念論的知の上に人間学(anthropologie)を打ちたてることを禁じている。たとえばミュリア族と現代社会の歴史的人間とに共通の〈人間性〉を発見することは不可能であろう。」〕と言い、〔人類学はethnoligieとしてしか成り立たない〕と考えていて、〔レヴィ=ストロースの考える意味でのanthropologieとしての人類学の成立つ可能性を否定〕してたみたい。

    サルトルの『方法の問題』『弁証法的理性批判』はともに1960年、レヴィの『野生の思考』は1962年。

    つぎに、〔(本書300項注)〕のところを書き写して見ます。
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