| おくったがわさん、こんばんは! 書き込みありがとうございます(^_^)
> 因果関係、自分も考えてみました。基本的なことしか書けません。 > > 人が火を触った後・火傷が発生する という組合せが何度も起こり、 > 逆に、火を触っても火傷にならない事例は稀なとき > 1. 火が火傷の原因だ と考えるようになる > これがヒュームの言う「因果関係は習慣から作られる」だと思われます。 > --しかし、分かるのは(常に)セットで起きるということだけであり、原因と結果というものを想定すべき根拠はない(とたぶんヒューム) > 2. それとは別に(?)、帰納法の問題があり、 > 今まで常に同じことが起きたから、今後も同じことが起きる と結論する。 > 人が火を触ると火傷が生じる というセットが、観察された限り常に起きていたから、明日からも人が火を触れば火傷が生じる と結論する。(しかし、実はその結論は真とは限らない、明日突然火傷しなくなるかもしれない −とこれもヒュームだったかな…別人かな?) > > そこで、pipitさんが「赤ちゃんが火に触ったら火傷する」と考えるとき、その理由はなにか、と。<
うーん、やっぱり私の個人的な実感としては、自分の【経験】からですね。 (赤ちゃんが火を触ったら火傷する)と私が言うとき、わたしの子供が小さいとき、線香花火の燃えてる玉を掴んで火傷した経験が私の脳裏に刻まれています。(ダメ親です。次男くん本当にごめんね)
ここで、カントの考え方かな?と思うことを書きます。まだ勉強途中なので間違えてたらすみません。
線香花火を子供が持ってる知覚
子供がジジジと小さな光る玉を掴む知覚
子供の指が黒く傷つき泣き叫ぶ知覚
子供の手を掴みバケツへつける知覚
これらの知覚を、原因と結果という考え方(思考)の元に包摂して、はじめて、「花火(火)を触ると火傷する」という経験をする。
知覚は、物自体から感性が受動的に得たもの。 得たもの、を、このカテゴリーに包摂するとき、(包摂する条件があります。そこらへんが多分岩井拓さんの記述でなされてると思います。)、わたしたちは、その経験が客観に妥当する認識だと理解する。(もちろん、その理解が全て正しいわけではなく、その正誤を他人と同じ土台で議論できる用意ができたということ)
カントにとっては、原因と結果の経験、が、因果関係という枠組みがないと成り立たない、 ということなのかなーと今のところ思いました。
火を触る、火傷する、という人間にとってのバラバラな知覚を、客観に妥当する認識(火傷の原因は火を触ったこと)に変化させたのが、経験の類推という原則であり、その原則に沿うための条件に、受動的な感受による表象の現れ方が適っていた、というイメージを持ちました。
> あと、 > 現代人が「花火を触ったら火傷する」と考えるとき、科学的知識も関わってくるので上の1,2のように単純ではないかもしれませんが、 > その科学も根本的には「AとBはセットで起きる」で成り立っていて、原因-結果という表現は便宜的なもの。(たぶん)<
そうですね、私も実感としては、原因と結果という表現は便宜的、とも思えますが、、、目を開けたら空間の中に物が配置されているように見えるように、どうしても原因と結果という思考の枠組みで現象を捉える場合があるということかなぁ。 ちょっとまだちゃんとわからないですm(_ _)m
>>カントの因果についての考え方はどんなのなのかな、理解してみたいな、と思いました。 > > 先日の岩井拓朗さんという人の論文は、因果性のカテゴリーで現象について原因-結果を認識した後〜 の話で、因果性のカテゴリーそのものや、どうやって原因-結果と把握するのかについては、無かったですね。たしか。<
大分簡潔に記述されてましたもんね。 岩井さんの論文も参考にさせていただいて、カントの文章や他先生の解説を読んで、ちょっとずつでも理解していけたらな、と、思っています。 それにしても、、、カントの文章はある意味苦行ですよね!
おくったがわさん、ありがとうございます、おやすみなさ〜い(^O^)/
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