| 2021/11/28(Sun) 16:02:53 編集(投稿者)
■No19473に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > PN氏主宰の掲示板にきて、これだけあなたをこき下ろして削除もされてないんだから、 > 質問に答えるくらいは――私に回答できるものであれば――答えますよ。
サンキュ〜。削除されてないのは当然やん。 法に抵触してるわけでもないし、INFORMATIONにあるサイトポリシーにも反してないからね。 わしもプロレスチックなエンターテイメント的煽りは好きやし。w
毒入りパニチェ的戦術とは違って(笑)、質問する前にまず自分の論考解釈を述べてみる。 パニチェは(紛らわしいので自分のことをパニチェと表記する)論考の「私」と「形而上学的主体(哲学的自我)」や「主体」は異なるからこそ区別するために名を変えていると考えている。 その根拠となるのが以下の言説。 以下、大修館書店刊「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」よりの引用
****************************************** 5.631 思考し表象する主体は存在しない。 もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。 5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。 *************** 引用終わり ***************
上記は主体を孤立させる方法として『私が「私が見出した世界」という本を書き、そこで私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語ること』と読める。そして「私の身体」や「どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか」は世界の事実(1.1)や事態(2)であるのに対して、主体は世界に属さないにために世界には『存在しない』ことを示しうる。
混ざってるか(どちらかが部分であったり本体であったりするか)、くっついてる(隣接している)かはともかく(通常は)主体は私から孤立していない、これを孤立させる(浮き上がらせる)方法として上記の方法がある、と。
このように読解すれば「私」と「主体」は異なる。 異なるが故に「私」とは別物の主体を孤立させる方法を名を区別した上で別物として述べているという解釈が成立する。
論考で用いられている「私」は読者も日常的に用いる一人称単数代名詞であり、これに対して「形而上学的主体(哲学的自我)」や「主体」は論考によって語りえない(世界に属さない)ものとして示された対象のひとつ(他にもある)であるという読解をしている。
No19324 ザビビのふくろうさん > 以下の「私」は、すべて「世界の限界としての私」(T: 5.63,5.631,5.632) > すなわち、「示される独我論的私(T: 5.62)」「形而上学的主体(T: 5.633)」を意味する。これらはすべておなじものを意味し
5.631も含め「5.6私の言語・・」「私は私の世界である」等々で述べられている「私」と、形而上学的主体(5.633&5.641また5.641では哲学的自我)や主体(5.62&5.631&5.632)が同一であるとザビビのふくろうさんが読解しているのは論考のどの言説からでしょうか?また同一であるにもかかわらず、使い分けている理由は何だと考えられますか? できれば5.631をどのように読解しているのかも知りたい。
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