| No1613
おくったがわさんへ
こんばんは!
おくったがわさんのおかげで、英文法にわずかでも向き合い、さらに、カントの原文を目にする気持ちになった。 感謝しかないですよ〜 (^人^)
>> 『また心は、内的な感覚能力を通じて自己を、あるいはみずからの内的な状態を直観する。 >> ただしこの内的な感覚能力は、魂(ゼーレ)そのものを一つの客体として直観するものではない。 >> しかし内的な感覚能力にはある特定の形式がそなわっていて、心の内的な状態を直観するのは、 >> この形式によらねばならないのである。〔この形式とは時間であり〕その内的な規定に属するすべてのものは、この時間という形式との関係で心に思い描かれるのである。』 >> (純粋理性批判1.p77.78より引用)<<
>時間による変化・差分によって心というものを認識(それとも構築?)できるというようなことなのでしょうか? 外の世界は空間という座標上の差異(関係)で存在や状態を捉え、内的世界は時間による差異で…。 いづれも時間・空間上の他との関係によって、その存在・態様を捉える…みたいなイメージを持ちましたが、合ってるでしょうか? 当然、人間の認識上に現れる差異関係ということなのでしょうけれど…。 全くトンチンカンなことを言っていたら、びしっと否定してください。それもめんどうだったら敢然とスルーしてくださいませ^^<
私は『純粋理性批判』の2パーセントくらいしか本文読めてない超初心者ですm(_ _)m 誤解釈ありあり、ですので、超初心者の意見として読んでくださいねm(_ _)m
(私見) おくったがわさんの考え方、おもしろい!と思いました。
確かに、座標、って、差異、ですよね。
考えてみれば(一般的な意味での)認識、とは、なんでも、差異が関わっているなぁ、と。 慧眼だなぁと、感心しています!(◎_◎;)
このことは考えると、哲学的探求に繋がって、とても深くなりそうな気がしますが、、、 カント哲学の全体的な把握にもすごく関連してくるような気もしますが、、、
とりあえず、ここでは、引用したカントの文章の部分的解釈、という範囲内に小さく絞って、手元にある本を読んだりしながら、自分自身でも考えてみます。
※※※※※※※※
この文章に絞って理解するならば、おくったがわさんの書いている内容の是非までは、今ここでは判断できない、と、思いました。
わかりやすくするために、【内的な感覚能力】を【A】と置き換えてみます。
>> 『また心は、【A】を通じて自己を、あるいはみずからの内的な状態を直観する。<< ↓ 【A】を通すと、心は、心を、あるいは心の内的な状態を、直観する。
>> ただしこの【A】は、魂(ゼーレ)そのものを一つの客体として直観するものではない。<< ↓ 【A】を通しても、魂そのものを客体として直観はできない。
>> しかし【A】にはある特定の形式がそなわっていて、心の内的な状態を直観するのは、 >> この形式によらねばならないのである。〔この形式とは時間であり〕その内的な規定に属するすべてのものは、この時間という形式との関係で心に思い描かれるのである。』 >> (純粋理性批判1.p77.78より引用)<< ↓ 上述のように、【A】を通すと心の内的な状態が直観できるのだが、その際、特定の形式が【A】にあるため、【A】を通して直観するものは、形式(時間)との関係で心に描かれる。
私見ですが、差異によって認識する、というよりは、 【A】によって直観するが、【A】の形式が時間なので、直観するものは【A】の形式(時間)に則って、心に思い描かれる。 【A】を通すから、形式としての時間に差異をもった直観となる。
かんじかなー、と、今の時点では思いました。 これは、あくまで、引用文章に限定したものなので、全体的に見るとおくったがわさんの考えてることは、とても重要なことになってくるのかもしれませんね。 これから、勉強していきますね(^ ^)
今日はもうすぐ寝ますので、こちらを一足先に↓
>『内的な規定に属するすべてのものは、この時間という形式との関係で心に思い描かれる』 この部分の中山元さん以外の和訳はお持ちですか? <
今手元にあるのは図書館で借りてきた、高峯一愚訳(河出出版)p65 『したがって内部的規定に属するすべては時間関係において表象されるのである。』
Kindleで購入した、天野貞祐訳(講談社学術文庫)p147 『すなわちすべて内的限定に属するものは時間関係においてのみ表象せられるのである。』
おくったがわさんは、大乗仏教とかにもお詳しいのかなー(私は全然詳しくないです) すごくおもしろそうなこと書いてられるかんじだけど、今日は遅いのでもう寝ますね。
毎日暑くて大変ですね、おつかれさまです おやすみなさい ☆ |