| 自分が枝葉末節な投稿をしたために、色々調べて頂いて、貴重な時間を使わせてしまってすいませんでした。ごめんなさいごめんなさい(5回以上繰り返したい)
しかしフローラさんご指摘の、ドイツ語では関係詞の前に必ずカンマを打つというのは、面白かったです。 元は同じだろうに、なんで違ってきたのかなーと ドイツ語と英語の関係をネットで調べると面白いことが書かれてましたが、この話はここで終わります。 > 議題(?)になってる、ドイツ語原文の英訳をコピペしますね。
(投稿が拒否されるので英訳の引用は省略します by おくったがわ)
> ちなみに同箇所ドイツ語原文の中山元先生の日訳を引用します > 『また心は、内的な感覚能力を通じて自己を、あるいはみずからの内的な状態を直観する。 > ただしこの内的な感覚能力は、魂(ゼーレ)そのものを一つの客体として直観するものではない。 > しかし内的な感覚能力にはある特定の形式がそなわっていて、心の内的な状態を直観するのは、 > この形式によらねばならないのである。〔この形式とは時間であり〕その内的な規定に属するすべてのものは、この時間という形式との関係で心に思い描かれるのである。』 > (純粋理性批判1.p77.78より引用)
時間による変化・差分によって心というものを認識(それとも構築?)できるというようなことなのでしょうか? 外の世界は空間という座標上の差異(関係)で存在や状態を捉え、内的世界は時間による差異で…。 いづれも時間・空間上の他との関係によって、その存在・態様を捉える…みたいなイメージを持ちましたが、合ってるでしょうか? 当然、人間の認識上に現れる差異関係ということなのでしょうけれど…。 全くトンチンカンなことを言っていたら、びしっと否定してください。それもめんどうだったら敢然とスルーしてくださいませ^^
。o0 時間という形式によって認識できるというと、音楽をイメージしました。 (歌は心ってそういうことか(違う)。 。o0 降り注ぎ来る時間が浮き上らせる差分が心を成立させ、そして次に来る差分は確定しない以上、心も確定することは無い。 。o0 即今は心の消去なのか…
考えてみると「心が自己を直観する」なので、これは一筋縄ではいかない話のような ↑今頃気づきました、すいません(3回くりかえし) 『内的な規定に属するすべてのものは、この時間という形式との関係で心に思い描かれる』 この部分の中山元さん以外の和訳はお持ちですか?
以後のトピの流れを読んで、カントの「超越論的」の意味をはじめて分かりました(分かったように思ってます)。ありがとうございます。気になってたのに調べたことが無かったのでした。 時間・空間はアプリオリか。アプリオリな総合判断はあるか、という話題も面白いです。パニチェさんとの「私」についての対話も。
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