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■20639  Re[14]: カントと数学B
□投稿者/ pipit -(2022/02/02(Wed) 16:15:48)
    みなさま、こんにちはー (^○^)

    柄谷さんの記述文章
    >カントが言うのは、非ユークリッド幾何学が成立するためには、ユークリッド幾何学を必要とするということである<

    を、柄谷さんが説明される箇所から引用を再開します。

    雑誌『現代思想』3月臨時増刊号カント(1994年)、p17-
    『 ある公理体系の無矛盾性を証明する一つの方法は、直観的なモデルに訴えることである。

    たとえば、リーマン幾何学の場合、その公理系において、
    "平面"がユークリッド幾何学の球面を、
    "点"がその球面上の点、
    "直線"がその球の大円を指していると見なすことによって、
    ユークリッド幾何学の球面をモデルにすることができる。
    そうすれば、リーマン幾何学の各公理はユークリッド幾何学の定理に変わる。

    つまり、ユークリッド幾何学が無矛盾であるかぎり、非ユークリッド幾何学も無矛盾であるということになる。

    ところが、ユークリッド幾何学の無矛盾性は、それ自体では証明できないのであり、結局は直観に訴えることになる。
    つまりは、ユークリッド幾何学に帰着するのである。

     ところで、そのような方法を断念するところにヒルベルトの形式主義がある。
    彼は、『幾何学原理』において、第五公準だけでなく、他の定義・公準もまた自明的な真理ではないこと、たとえば、「点」や「直線」にそれ自体意味はないと考える。
    つまり、数学を形式化したのである。

    ところが、どんな幾何学でも成立してしまうかというとそうではない。
    彼は、それを公理系のなかで、三つの判定基準がみたされているかどうかで区別する。
    完全性(すべての定理がその公理系から得られること)、
    独立性(その公理から任意に一個の命題を除いた場合、もはや証明不可能になるような定理が存在すること)、
    無矛盾性(その公理系から互いに相矛盾するような諸定理を証明することが不可能であること)。

     ヒルベルトは、数学を、直観的自明性ではなく、形式体系の無矛盾性によってのみ基礎づけようとしたのである。
    (略)
    ヒルベルトは直観主義者の言うように「有限的立場」をとりながら、なお直観を必要としない数学の基礎づけを企てる。
    それがヒルベルトのプログラムである。

     しかし、これは、このプログラムを文字どおり実行したゲーデルによって自己言及的なパラドックスに陥ることが示された。
    (略)
    ゲーデルの証明は、いうまでもなく「形式主義」のなかでなされているのであり、形式主義を前提するかぎりでパラドックスに陥るという証明である。
    もちろん、それはラッセルの論理主義の破綻をもふくんでいる。

    ゲーデルが示したのは、数学的真が、形式的な公理体系から必ずしも決定されないということであり、いいかえれば、形式的に基礎づけられないような真がありうるということである。
    もう一つは、数学が無矛盾であるかぎり、数学は自らの無矛盾性を証明できないということである。
    (略)

    私の考えでは、形式的な公理系によって数学を基礎づけるという夢想は、数学に固有のものではない。
    分析的判断を唯一確実なものと見なす形而上学によってもたらされたものである。
    カントが否定しようとしたのは、そのような思考である。
    しかし、それはそうした形而上学が、自ら押しつけた数学に依拠している以上、数学においてなされなければならない。
    逆に、数学においてなされたことは、それを模範としてきた哲学に投げかえされるだろう。
    ゲーデルの「超数学」的批判は、そのような意味をもつ。
    したがって、それはカントの超越論的批判とつながっている(4)。

    ※註(4)しかも、カント、ヒルベルト、ゲーデルは数奇な歴史の糸によってつながっているのである。
    《カントと同じケーニヒスベルク出身の数学者ヒルベルトは、『純粋理性批判』の刊行から一三五年後に、「ヒルベルトのプログラム」と呼ばれる研究目標をかかげ、純粋理性の無限の可能性を数学の中に見ようとしました。ゲーデルはその不完全性定理によって『理性の限界』を証明して、ヒルベルトのプログラムを否定的に完成させました。しかもそれを「原理に基づいて」なしたのですから、ゲーデルはヒルベルトの大先逹であるカントの夢を、皮肉な結果でありましたが、字義通りに実現してみせたといってもいいかもしれません》(吉永良正『ゲーデル・不完全性定理』講談社、一八頁)。

     現在からふりかえって、カントが数学を「綜合的判断」と見なしたのは正しかったといわねばならない。
    綜合的判断とはカントがいうように「拡張的判断」である。
    実際、数学は歴史的に発展してきたし、今後もそうである。
    (略)
    問題は、カントのいう「綜合的判断」が非ユークリッド幾何学の可能性から来ているのに、つねに古くさいものとして扱われてきたことである。
    それはカント読解を今もゆがめている。
    (略)』

    以上で柄谷行人さんの記事の引用を終わります。

    pipitの感想としては、
    ある見解が正しい、とか、正しくない、などは、
    どのような地点からどのような基準でみるか、などの条件が絡まってて、一概には断定できないんじゃないかな、と、思いました。

    「数学がアプリオリな綜合判断」というのは、数学が発見か、発明か、どちら?という問いかけにも関わるのかなとも思いますが、
    (総合判断なら発明、分析判断なら発見、と、pipitは今のところ思いますが)、

    手持ちの材料で発明してる、とすれば、
    手持ちの材料に着眼すれば分析的事態だし、
    発明に着眼すれば綜合的事態だし、
    みたいな。

    現在の柄谷さんが
    >現在からふりかえって、カントが数学を「綜合的判断」と見なしたのは正しかったといわねばならない。<
    という意見をまだお持ちか、否かはわかりませんが、
    pipitとしては、理念としては、
    【カントがどのような理屈で綜合的判断とみなしたのか、を、理解する】 
    という道を選択したいな、と、、、

    頭では思ってますが、、、

    カントの見解に、執着してしまってますから、、、反省するけど、治し難い!
    (*_*)
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