| ■No1629に返信(pipitさんの記事) > とりあえず、ここでは、引用したカントの文章の部分的解釈、という範囲内に小さく絞って、手元にある本を読んだりしながら、自分自身でも考えてみます。
> 私見ですが、差異によって認識する、というよりは、 > 【A】によって直観するが、【A】の形式が時間なので、直観するものは【A】の形式(時間)に則って、心に思い描かれる。 > 【A】を通すから、形式としての時間に差異をもった直観となる。 > > かんじかなー、と、今の時点では思いました。
丁寧に考えてくださって、ありがとうございます。 その部分の『この内的な感覚能力は、魂(ゼーレ)そのものを一つの客体として直観するものではない』 とは、外の世界に関して物自体を直観することはできないというのと同じなのでしょうか。あるのだけれど、そのものの有様を人は知ることができない、と。
> >『内的な規定に属するすべてのものは、この時間という形式との関係で心に思い描かれる』 > この部分の中山元さん以外の和訳はお持ちですか? < > > 今手元にあるのは図書館で借りてきた、高峯一愚訳(河出出版)p65 > 『したがって内部的規定に属するすべては時間関係において表象されるのである。』 > > Kindleで購入した、天野貞祐訳(講談社学術文庫)p147 > 『すなわちすべて内的限定に属するものは時間関係においてのみ表象せられるのである。』
ありがとうございました。内的な規定というのが自分にはよく分からず、もしかして「心に思い描かれる」も含めて別な意味なのかな、と思ったのですが、「時間関係において表象される」なら三人とも同様な意味に捉えておられるのでしょうね。 今後分かるようになれば…と思っています。
> おくったがわさんは、大乗仏教とかにもお詳しいのかなー(私は全然詳しくないです)
自分はまっタコ詳しくないです。 興味はあるのですが、知識ではなく体験すべきものという刷り込みもあって勉強せずに来まして(他のことも勉強しないので、単に意欲がないだけか) せっかくパニチェさんや転法さんを知る機会があったのだから、もう少し質問等しておけばよかったと最近思ったり。 このサイトのリンク集にある正法眼蔵の辨道話を最近読み終わり、面白かったです。その程度の知識です。 |