| No1613
こんばんは 暑いですね〜 (*_*)
>。o0 時間という形式によって認識できるというと、音楽をイメージしました。 (歌は心ってそういうことか(違う)。<
音楽、に、時間という要素は必須に、私も(?)思えます
>。o0 降り注ぎ来る時間が浮き上らせる差分が心を成立させ、そして次に来る差分は確定しない以上、心も確定することは無い。<
詩的ですね。私は直接お話ししたことないけど、おくったがわさんとお知り合いのつばめさんのことが頭に浮かびます。 つばめさんをはじめ、いろんな方がニーチェクラブにトピを作ってくださったら、 一つの街みたいで、楽しいな〜 そうなったら嬉しいな〜
>。o0 即今は心の消去なのか… <
そういう考え方、私は思いついたことありませんでした。 おもしろいなぁ、大乗仏教にもそういう考え方あるかなー、って、全然知らないまま思いました。
>考えてみると「心が自己を直観する」なので、これは一筋縄ではいかない話のような ↑今頃気づきました、すいません(3回くりかえし)<
全く、すみませんではないです 本当にありがとうございます(^ ^)(^ ^)(^ ^) おっしゃる通り、中島義道先生の解説読んでも、めちゃややこいです(^^;; ちゃんと理解していく道はおもしろそうといえばおもしろそうですけど。
>以後のトピの流れを読んで、カントの「超越論的」の意味をはじめて分かりました(分かったように思ってます)。ありがとうございます。気になってたのに調べたことが無かったのでした。 時間・空間はアプリオリか。アプリオリな総合判断はあるか、という話題も面白いです。パニチェさんとの「私」についての対話も。<
おくったがわさんは、お気に入りの哲学者とかおられるのですか? またよかったら教えてくださいね(^ ^)
それでは、はやく涼しくなってほしいですね、
おやすみなさい (^O^)/ |