| ■44524 / ) |
Re[42]: :つれづれなるままに
|
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/10/26(Sun) 14:58:31)
| No44523(M-ca)から「ゲシュタルト」を中心に抜粋したの。
(1)〔第二章〕「子どもにおける知覚」 結論 ――古典的理論にとって、事物は、特定の多変数関数の関係の知的理解です。それはすべて知的に理解されうるものです。 ――ゲシュタルト理論にとって、事物とは、知的以前の一体性のことです。それは、知覚に対しての何らかのスタイルとして規定されます。たとえば、古典的理論にとって、円とは、わたしが理解するこの形の生成法則のことです。ゲシュタルト理論にとって、円とは特定の顔つき(フィジオノミー)であり、湾曲のことです。われわれは諸事物の一体性を見ることを学ぶのです(たとえば、レモンの黄色はその酸っぱさと結びついており、両者を類義語とする構造上の共通点があるのです)。 したがって、以上のすべてから、子どもの経験は混沌からではなく、構造に欠陥があるだけの、すでにある世界から始まることが確かめられます。(p27)
(2)ゲシュタルト派の大きな功績は、まず具体的な知覚の組織化の問題を知能から独立して立てたことです。観念論的態度と経験的態度という二つの態度は、互いに排除しあうわけではありません。あり意味で、この二つの態度は補いあっています。同じ著書において、この二つの態度が異なるレベルで見いだせることもあります。(p98)
(3)われわれが直面しているのは、自己変形であり、それ以前に獲得したことによって準備された飛躍です。運動が自分自身の運動を変化させるのです。(p100)
(4)大人と子どものあいだにあるのは、単なる程度の差ではありません。そこにあるのは知覚野そのものの再組織化なのです。ゲシュタルト派(コフカ)にとっては、子どもの知覚の構造そのものが異なっており、神話的感覚の概念があるのです。(p100)
(5)ゲシュタルト理論は、古典的な経験論と同時に主知主義に反対するという立場をとり、この対立する学説のそれぞれが犠牲にしてきたことを、積極的な寄与によって救いだします。(p104)
(6)H・ベルクソンは「知覚することは想起することである」と述べています。私が見るのは、見るだろうと予期していることだというのです。ゲシュタルト派はつぎのように答えます。それがあるのは実験的状況だけであり、〔知覚への〕想起の投影は移動的に機能するわけではなく、現在の布置(コンフィギュラシオン)に完全に条件づけられている、と。(p105)
(7)クラパレードは、知覚されたそれぞれの光景のなかに上位の均衡へと向かう知覚の方向性があり、知覚そのもののなかにさらに現実に即した組織化があることを認めるよう提案しました。これはすでにゲシュタルト心理学の本質的な考えでした。(p113)
(8)ギョームは、知覚された世界は「プロトタイプ(原型・基本型・模範・モデル)」であり、それは我々の知能によって組織化し直されなければならないが、その統一とその秩序を有しているという深い考えを提案しています。(p117)
(9)〔ゲシュタルト派の〕誤解は、ゲシュタルトを、組織化の現象、一種の構造でしかないのに事物にしようと望んだことにあります。 (p118)
(10)ゲシュタルト理論〔Gestalttheorie〕が、実効的なものとしての思考を分析しようとします。しかし知能の組織化と知覚の組織化は比較できません。いずれにおいても、われわれは、純粋な価値からと同じぐらいな純粋な出来事から遠くにいます。しかし、知能と呼ばれる構造化は、たんに知覚的な構造化とは別ものです。(p118)
(11)ゲシュタルト理論は、純粋な心理学的出来事と、真理の把握とのあいだに、知覚的組織化という中間項を設けるのです。 (p125)
(12)知能は知覚と区別されます。なぜなら知能は可能なことのなかに飛び込み、そこから諸経験のなかの有効なものを理解しなければならないからです。そこには現象野の適用ではなく、再創造があります。(p126)
(13)ヴェルトハイマ―は、知能の働きが「ゲシュタルト化〔Gestaltung〕であることを認めます、〔知能の〕組織化は、幅広い一般性をもち、現象の本質を目指しますが、この組織化において使われるのもまた知覚の世界です。この世界がなければ、過去の構築物すべてに何の意味をもたないことになってしまうでしょう。そこには、図形の感覚的分節化への精神による参照があるのでる。(p126)
(14)ゲシュタルト理論は、知能と知覚された世界との間の関係を維持している。(p129)
(15)発達の本質は再構造化であり、それによって新しいタイプの生を実現するために身体的状況が引き受けられるのです。 (p138)
|
|