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Re[5]: つれづれなるままに 21
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/09/11(Thu) 19:06:41)
| No44153のつづき、 (1)―――――――――― @表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉の内的根拠を求めて、 ・・・可能的経験〈経験的悟性加工認識〉に必要な認識の統一〈統覚〉ができるのは我々人間には純粋統覚があるからである。 A我々人間の認識は、直観〈直接の見え〉が意識〈コギト(私は考える)〉のなかへ取り入れられることによってである。 意識〈コギト(私は考える)〉のなかに取り入れられていない直観〈直接の見え〉は無である。 B我々人間は、いつでも、いつかは、我々人間の認識に属することができるようなすべての表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉を可能ならしめる必然的条件として、自分の自己同一性を、意識〈コギト(私は考える)〉している。 C――我々人間のうちにある表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉は、それが諸他一切の表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉と共に《一つの意識〈コギト(私は考える)〉》に属すことができるし、従ってまたこの意識〈コギト(私は考える)〉において少なくとも結合できなければならないということによってのみ、{何か或るもの}を「表示する」からである。―― Dこの原理〈ならしめているもの〉は、ア・プリオリ〈(経験的認識)より前〉に確立されている。 Eそしてこの原理は、我々人間の表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉における――従ってまた直観〈直接の見え〉における――すべての{多様なものの統一〈統覚〉}の「超越論的原理」と名づける。 Fところで主観における{多様なものの統一〈統覚〉}は綜合的である、それだから純粋統覚は、すべての可能的直観〈直接の見え〉における多様なものの綜合的統一〈統覚〉の原理〈ならしめるもの〉を与えるものである。 ――――――――――――― (2)―――――――――――― Gおよそ表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉は、すべて、可能的経験的意識〈経験的コギト−私は考える〉に必然的に関係する。 もしこのような表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉と経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉の関係を意識〈コギト(私は考える)〉ことができないとすると表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉は存在しないというのと同じことになるだろう。 H経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉は、【(個々のいかななる経験〈経験的悟性加工認識〉よりも前にある)超越論的−意識〈超越論的コギト(私は考える)〉=根原的統覚としての私の自己意識〈自己という意識が存在する〉】に対して、必然的関係をもつ。 Iそれだから、私の認識において、すべての意識〈コギト(私は考える)〉が、《一つの意識〈コギト(私は考える)〉=(私)という自己意識〈自己という意識が存在する〉》に属することが絶対に必要である。 Jここに多様なものの(意識〈コギト(私は考える)〉)の綜合的統一〈統覚〉がある。この統一〈統覚〉がア・プリオリ〈より前〉に認識され、純粋思惟に関するア・プリオリ〈より前〉な綜合的命題〈判断を言葉にして表したもの-「qはpである」〉の根拠をなす。 これは、空間・時間が純粋直観〈純粋な直接の見え〉形式に関する綜合的命題〈判断を言葉にして表したもの-「qはpである」〉の根拠をなしているのと、まったく同様である。 K種々な経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉は、すべて《一つの自己意識〈自己という意識が存在する〉》において結合されていなければならない、という綜合的命題〈判断を言葉にして表したもの-「qはpである」〉は、我々人間の思惟一般の絶対に根原的綜合の原則である。 Lしかし(私)という単なる表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉が、諸他すべての表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉――これらの表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉の集合的〔全体的〕統一〈統覚〉を可能ならしめるのは、この(私)という表象〈私が私の前に(私)を立てるということ〉である――に関しては超越論的意識〈超越論的コギト(私は考える)〉である、ということに留意せねばならない。 Mところでこの(私)という表象〈私が私の前に(私)を立てるということ〉が――経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉として――明瞭であるか、あるいは、不分明であるかはこの場合まったく問題にならない。それどころかこの表象〈私が私の前に(私)を立てるということ〉は、経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉の現実性にすら関係しないのである。むしろすべての認識の論理的形式の可能は、唯一の能力としての〔超越論的〕統覚に対する必然的関係に基づいているのである。
〔事項索引〕の―――――――――――――― *〔事項索引〕の、 S純粋統覚は、一切の可能的直観〈直接の見え〉における多様なものの綜合統一〈統覚〉の原理である A117 は、Fと同じかな。 *〔事項索引〕の、 Nおよそ経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉は超越論的意識〈超越論的コギト(私は考える)〉すなわち根原的統覚としての私の自己意識〈自己という意識が存在する〉に必然的に関係する、 それだから私の認識において一切の意識〈コギト(私は考える)〉が《一つの意識〈コギト(私は考える)〉=(私)という自己意識〈自己という意識が存在する〉》に属することが絶対に必要である A117A は、HIと同じかな。 R一切の経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉には純粋統覚がア・プリオリ〈より前〉にその根底に存する A116 は、Jに関連してるかな。 P統覚は一切の可能的表象〈私が私の前に何ものかを立てるということ〉における完全な自己同一性である A166 は、Bに関連してるかな。
*他〔事項索引〕の、 O統覚は自己意識〈自己という意識が存在する〉である 68 Q(私は考える)という表象〈私が私の前に(私は考える)を立てるということ〉を純粋統覚あるいは根原的統覚と名づけて経験的統覚から区別する。純粋統覚は(私は考える)という表象〈私が私の前に(私は考える)を立てるということ〉を産出する自己意識〈自己という意識が存在する〉であって他の統覚から導出せられ得ないものだかである 132 ㉑根原的統覚においては一切のものは自己意識〈自己という意識が存在する〉の完全な統一の条件に必然的に適合せねばならない。A111 ㉒根原的統覚は一切の表象を総括する内感に関係し、しかも内感の形式に、換言すれば時間における経験的意識〈経験的コギト(私は考える)〉――即ち多様な内容を含むところの意識〈コギト(私は考える)〉――にア・プリオリに関係する。220 ㉓直観〈直接の見え〉における多様なものの綜合、客観一般の概念の綜合および経験〈経験的悟性加工認識〉の一切の対象の綜合に必然性を与えるところの根原的、超越論的条件が即ち超越論的統覚である。A106 ㉔意識〈コギト(私は考える)〉統一〈統覚〉の超越論的条件が超越論的統覚である。 A107
あ、これはカントのの解釈じゃなくて、あくまでもわたしの見方で見ると、っていうことのね。
なんか長くなっちゃって、ごちゃごちゃしてきてるから、きょうのわたしのお喋りはここまで。
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