□投稿者/ rest -(2025/05/03(Sat) 22:07:10)
| これも保存しておきます。
□投稿者/ Appendix -(2025/04/27(Sun) 22:49:25)
2025/04/27(Sun) 23:11:46 編集(投稿者) 2025/04/27(Sun) 23:08:14 編集(投稿者)
仮説としての多世界解釈と仮説でない多世界解釈と合わせた合としての多世界解釈というのはヘーゲル的弁証法のつもりのようだが、これは形而上学であって、科学ではない。 科学はカール・ポパーのいうように反証可能なものでなければならない。 つまり、ある仮説が観察や実験の結果によって否定され、あるいは反駁される可能性を持つことが条件でなければならない。上記仮説は実験のしようがないので科学ではない。ドグマであり、疑似科学であって、宗教のようなものだ。 しかしさらに仮説としての多世界解釈にしても、例えば自分というのが多数いて、しかも干渉できない、いわゆる没交渉の世界である、というのは反証可能性がない。科学といえるのか。 多値論理学は古典的論理学を否定しているのではなく、補充するものである、といわれている。古典論理ではAかつAの否定は恒偽式であり、矛盾式である。AあるいはAの否定はトートロジー(恒真式)であるが、シュレディンガーの猫における猫の生存かつ死んだ猫が共存しているというのは古典論理では恒偽式あるいは矛盾式である。多値論理でも、この共存は古典論理と同じ矛盾式である。トートロジーではない。多世界は仮説である。単世界の考え方も以前紹介した通り存在している。反証可能性のある科学である以上いずれ決着がつくだろう。私は単世界のほうが古典論理と整合性がとれていると考えている。
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