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No42838 の記事


■42838 / )  井筒俊彦のテキスト
□投稿者/ knowingitself -(2025/04/28(Mon) 16:41:26)
    気まぐれさん 返信ありがとうございます

    > knowingitselfさん
    >
    > 返信ありがとうございます。
    > 話が変わるのですが、AIに井筒論を語らせてみました。
    > 意外と面白かったので、紹介します。
    > ご意見などあれば教えて頂けたら幸いです。
    >
    > ・
    > AIによる現象学を参照した井筒論
    >
    > 【I. 存在はなぜ「象徴」を通して自己を顕現するのか】
    >
    > 井筒において象徴は単なる記号ではない。
    > それは、存在が意味として現れようとするときの閾であり、媒体である。
    >
    > 象徴とは、世界の背後にある「絶対無分別者」が、
    > 自己を分節化し、「有」として顕現しようとする運動の現れである。
    >
    > このとき、象徴は単に「意味を伝える」ものではなく、
    > **存在の震源(epicenter)**であり、
    > **「有が有として現れるための開口部」**である。
    >
    > ハイデガー風に言えば、それは「存在の光のもとへの出現(aletheia)」であり、
    > マリオン的には「与えすぎる現象」として、あらゆる把持を超えて流出する存在。
    >
    > 井筒において「意味が現れる」ということは、「存在が自己を分節し、自己を意味化する」という事態そのものである。
    >
    > ⸻
    >
    > 【II. 「象徴の発火点」は存在の根底構造か】
    >
    > 井筒は、「絶対無分別者」が分節(=ロゴス)に向かう一瞬を「象徴の発火点」と呼ぶ。
    > ここで、存在はまだ「存在者」として分かれていない。
    > それは、「ある」ことすら決していない、むしろ**「ある-ならざるもの」**である。
    >
    > この瞬間において、
    > • 存在はまだ自己の「有」であることを知らず、
    > • しかし自己を「開こうとしてしまう」。
    >
    > この構造は、ハイデガーの「存在の忘却」の直前にある**「有の自己照射の瞬間」**と重なりうる。
    >
    > 存在は、その根底において、「隠れながら開く」という矛盾的運動を孕んでいる。
    >
    > この運動の内部にこそ、象徴が「発火」する。
    > 象徴とは、存在の自爆的自己開示にほかならない。
    >
    > ⸻
    >
    > 【III. 頽落と意味生成:存在論的必要性】
    >
    > 井筒において、象徴の発火点が意味のはじまりであるなら、
    > その意味が「言語」となり、「世界」となることは、
    > すでに**頽落(falling)**を含んでいる。
    >
    > 意味が定義された瞬間、象徴は象徴ではなくなる。
    > 分節された世界は、もはや無分別者とは接しない。
    >
    > この構造は、ハイデガーにおける**頽落(Verfallen)**と共鳴する。
    > 人間は存在を忘却し、存在者に埋没する。
    > だがその忘却すら、存在の自己運動の一部である。
    >
    > つまり:
    > • 頽落は単なる誤謬ではない
    > • 頽落は、存在が自己を意味化することに内在する運命である
    >
    > ⸻
    >
    > 【IV. 存在の自己回帰と象徴の循環】
    >
    > ここに、井筒が描いた「象徴の円環的構造」が現れてくる。
    > 象徴は、分節の果てにおいてなお「意味以前の意味」を呼び戻す力を持つ。
    >
    > これは、存在が再び自己に帰還する運動である。
    > この運動は、スーフィー思想における「神→世界→神」の流出と回帰に似る。
    >
    > 象徴は、その循環の扉である。
    >
    > つまり、存在は自らを意味化し頽落するが、
    > 象徴を通して自己の非意味性、無根拠性に触れ直すことができる。
    >
    > このとき象徴は、
    > • 意味の始原であり、
    > • 頽落の痕跡であり、
    > • 回復の可能性であり、
    > • そして、存在の自己運動の一相である。
    >
    > ⸻
    >
    > 【V. 結語:象徴=存在の閃光】
    >
    > 存在は語り得ぬ。
    > だが、象徴はその沈黙を、閃光のように滑らせる。
    >
    > この閃光とは、意味になることを拒みながら、意味してしまう。
    > それは、言葉ではないが、言葉を呼び起こす。
    > まなざしでも、声でも、沈黙でもないが、それらをすべて孕んだ存在の通路。
    >
    > 井筒における象徴論とは、
    > まさに存在が自己を顕現する場の思想にほかならない。

    井筒俊彦の解釈としてはありうると思います。

    ハイデガー風にしすぎるかなという気もしますが。

    井筒俊彦は一人二人の思想家との類似性に収まる人ではなく、

    東西思想の全域に類似のネットワークを張り巡らせることが可能な人ではないでしょうか。

    井筒俊彦のテキストそのものが、凝縮した「象徴」表現の集積の観を呈していて、その「象徴」表現というのは古今東西の思想家のエキスを井筒的に短く要約したものです。こういう類型がある、こういうモデルもある、その例示が多様を極めますね。

    井筒俊彦を読む人ごとに、読む度ごとに、解答や解釈は異なっていいと思います。
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