□投稿者/ SumioBaBa -(2025/04/13(Sun) 01:38:44)
| 〔3〕「空」W0の中ではすべてがトートロジー
「多世界解釈」は、W0=W1+W2+W3+…〔色即是空・空即是色〕と表現される。
我々の世界である「色」W1は《相対的世界》であり、論理的必然性も無いのになぜか多くの○○○について「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されている。《相対的世界》とは、「「○○○である」と「○○○でない」という2つの可能性のうち片方だけが実現し、他方が欠落した世界」である。どちらが実現するのか論理的必然性は無いので、実験・観察を繰り返すことで、我々の世界W1では何が真で何が偽かを見極める必要があり、それが科学(経験科学)である。そして、「「○○○である」が真で「○○○でない」が偽だ」という情報をもたらす真理が『相対的真理』である。
一方、「空」W0こそが《絶対的世界》であり、仏教でいう「不ニの世界」である。《絶対的世界》とは、あらゆる○○○について「「○○○である」「○○○でない」「両方」「片方」という可能性のすべてが実現し、何一つ欠落していない完全無欠の世界」である。これは「古典論理」では記述できず、「量子論理」を使ってこう表現する必要がある。 真の世界「空」W0はあらゆる○○○についてa「○○○で ある」+b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1)…[1]
これは、真の世界である「空」W0があらゆる○○○について、「○○○である」(a=1、b=0)かもしれない、「○○○でない」(a=0、b=1)かもしれない、「両方」(a≠0、b≠0)かもしれない、「片方」(a=1、b=0、または、a=0、b=1)かもしれない、とすべての可能性を網羅しているため、決して外れようがなく、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)である。喩えると、「確率1/6ずつで1〜6の目が出るサイコロを振ると何の目が出るか?」という問に、すべての可能性を網羅して「1、2、3、4、5、6、のどれかが出る」と答えるようなものである。
そして確率的に、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」(例えばW1で)、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」(例えばW2で)、「不定」と認識する視点に立てば「不定」(例えばW3で)、のトリプル・トートロジーが成立している。[1]と併せて全部で4つのクアルト・トートロジーになり、これこそが『絶対的真理』に他ならない。
科学とは、《相対的世界》である我々の世界W1において、「「○○○である」が真で「○○○でない」が偽だ」という情報をもたらす『相対的真理』を解明するためのものである。そして《絶対的世界》である「空」W0の中では、あらゆる○○○についてクアルト・トートロジーという『絶対的真理』が成立しているだけだから、そこには科学で解明すべき謎が何も無い。
「科学が我々の世界「色」W1の謎をすべて解明し尽くした」ではない。「真の世界は「色」W1ではなく、「空」W0の方だと気付いたら、「空」W0の中には科学で解明すべき謎など何も無いことが解った」である。
『大乗仏教概論』の中にこう書かれていた。
ーーーーー科学は自己完結するものではない。ーーーーー(P74)
ーーーーー知性の力だけでは、我々の全存在の謎を解き明かすことなど決してできない。ーーーーー(P84)
ところが量子力学の「多世界解釈」を採ると、真の世界である「空」W0のすべてをクアルト・トートロジーだけで表現でき、謎は完全消滅した。「科学は自己完結した」のである。そして、「知性の力だけで、我々の全存在の謎が解き明かされた」のである。
参考文献 「真如」ですべてがトートロジー(1)〜(4) No41498,41547,41589,41662 仏教で解けない謎を量子力学で解く(1)(2) No41975,41976 量子仏教〔1〕〔2〕 No42050,42051
|
|