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No41498,41547,41589,41662 の記事


■41498 / )  「真如」ですべてがトートロジー(1)
□投稿者/ SumioBaba -(2025/03/27(Thu) 05:09:12)
        「真如」ですべてがトートロジー(1)

     大乗仏教で「真如」(しんにょ)という言葉がある。「世界の真の在り方」といった意味であり、世界の存在と状態の謎について、究極の真理を直観で見抜いていたように思われる。

     そもそも世界は、どんな状態でなければならないという論理的必然性も無いし、「存在する」と「存在しない」のどちらでなければならないという論理的必然性も無いのではないか? だとしたら、何一つ論理の飛躍をしないために、世界は本来あらゆる○○○について、「○○○である」「○○○でない」「両方」「片方」というすべての可能性を持っていた、と考えてみるべきである。実際に「真如」は、どんな○○○についても「○○○である」と「○○○でない」の片方に限定されていなかった、と説明される。

     仮に世界の初めとしての「真如」が、論理的必然性も無いのに、なぜか「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけにすでに限定されていた、と考えてみよう。真理を片方だけに限定する場合は、ただの仮説になってしまうため、まず〔仮説〕=「世界の初めは「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だった」を証明せねばならない、という立証責任が発生してしまう。仮に実験・観察によってこの〔仮説〕が正しいらしいと判明しても、それは自分が住む世界W1についてだけの話だし、新たに《アポリア》=「論理的必然性も無いのに、なぜ世界は初めから「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されていたのか?」という謎が発生する。そして「そんなの知るもんか。なぜかそれが真らしいのだから、それをそのまま受け入れるしかないじゃないか。それが科学というものさ。」で終わるしかない。これがいわゆる「科学の限界」である。「真如」は見事に「科学の限界」を超越している。「真如」は何一つ限定されていないのだから、《アポリア》は一切発生しようが無いのである。

     《メタ・アポリア》=「真如が「無限定」だというのなら、「無限定」と「有限定」のうち、「無限定」だけにメタ限定されているではないか?」と反論したくなる。しかし、それも違う。「真如」は本来完全な「無限定」(正)であり、これを「絶対的真如」と呼ぶらしい。しかし「真如」は、「無限定」(正)だけにメタ限定されることもなく「有限定」(反)にもなれることで、世界の様々な森羅万象にも化けることができ、これを「条件付き真如」と呼ぶらしい。つまり、「無限定」(合)=「無限定」(正)+「有限定」(反)、そして、「真如」(合)=「絶対的真如」(正)+「条件付き真如」(反)、という止揚(アウフヘーベン)である。だから、《メタ・アポリア》も発生しない。

     ただ大きな問題がある。「古典論理」(「真」と「偽」の二値論理)で「真如」を定義しようすると、あからさまな矛盾となり、定義できないのである。実際「真如」が何なのかは、言葉では表現できないとされる。言葉で「「真如」は○○○である」と表現してしまうと、「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されてしまい、何も限定されない「真如」の記述に失敗してしまう。言葉では表現できないものは、科学の研究対象にはなれない。だから仏教は、「真如」を言葉で説明することを放棄し、瞑想や座禅、読経や写経、念仏や呪文などの方法により、「真如」を心で感じ取ろうとする宗教になってしまったようである。しかし「量子論理」(a「真」+b「偽」、0≦a≦1、0≦b≦1、の多値論理)を使えば、「古典論理」では記述できなかった「真如」を完璧に記述可能になる。こう表現すれば良いのである。
        真如はあらゆる○○○についてa「○○○である」+
        b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1)   …[0]


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■41547 / )  「真如」ですべてがトートロジー(2)
□投稿者/ SumioBaBa -(2025/03/29(Sat) 01:49:29)
        「真如」ですべてがトートロジー(2)
     
        真如はあらゆる○○○についてa「○○○である」+
        b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1)   …[0]
    [0]でa≠0、b≠0とおくと、「真如」はあらゆる○○○について「○○○である」と「○○○でない」の片方に限定されない。だから、どんな状態かも決まっていないし、どんな法則に縛られるかも決まっていないし、有矛盾か無矛盾かも決まっていないし、存在するか存在しないかも決まっていない。これが「絶対的真如」の状態で「空」W0と呼ぶ。しかし、決まっていないにも決まっていないので、決まっているにもなれる。これが[0]でa=1、b=0、または、a=0、b=1とおいた場合である。a=1、b=0の場合、[0]は「真如」があらゆる○○○について「○○○である」という可能性を持っていることを主張している。つまり「真如」は、存在し得るすべての世界である「色」W1、W2、W3、…にも確率的に化ける可能性を持っている。この「色」W1、W2、W3、…が「条件付き真如」である。

     真の世界こそが「空」W0であり、我々の世界W1は、「空」W0が取り得る無数の可能態である「色」W1、W2、W3、…の中の1つに過ぎなかった、という訳である。これが量子力学でいう「多世界解釈」W0=W1+W2+W3+…〔色即是空・空即是色〕である。大乗仏教でいう「真如」が、量子力学でいう「多世界解釈」と完全に一致した。「絶対的真如」が「空」W0であり、「条件付き真如」が「色」W1、W2、W3、…であり、「多世界解釈」W0=W1+W2+W3+…〔色即是空・空即是色〕こそが「真如」の在り方に他ならない。

     世界の真の在り方が「真如」だと気付くと、世界についてのすべての謎がただのトートロジーに解消されて消滅し、世界に謎など何も無かったことが理解されるのである。

     まず[0]自体がトートロジーである。[0]は、「真如」があらゆる○○○について、「○○○である」(a=1、b=0)かもしれない、「○○○でない」(a=0、b=1)かもしれない、「両方」(a≠0、b≠0)かもしれない、「片方」(a=1、b=0、または、a=0、b=1)かもしれない、とすべての可能性を考慮しているため、決して外れようがなく、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)になる。喩えると、「確率1/6ずつで1〜6の目が出るサイコロを振ると何の目が出るか?」と問われたとき、すべての可能性を網羅して、「1、2、3、4、5、6、のどれかが出る」と答えるようなものであり、外れようがない。

     我々の世界W1の中だけで見ると、多くの○○○について論理的必然性も無いのに、なぜか「○○○でない」ではなく「○○○である」だけが選ばれて実現しているように見える。だから、《アポリア》=「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」のだけが選ばれて実現しているのか?」という答の見付からない謎の存在を認識してしまう。しかし、W2、W3、…の中では「○○○でない」や「不定」も実現している。つまり、「真如」W0=W1+W2+W3+…全体の中ではあらゆる○○○について「○○○である」「○○○でない」「不定」の3つすべてが確率的に実現しており、「○○○である」と認識する視点に立てば「○○○である」、「○○○でない」と認識する視点に立てば「○○○でない」、「不定」と認識する視点に立てば「不定」、のトリプル・トートロジーが成立しているだけである。「○○○である」だけが選ばれている訳ではないので、《アポリア》はすべて事実誤認だったこととなって消滅する。「真如」に謎は何も無いのである。

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■41589 / )  「真如」ですべてがトートロジー(3)
□投稿者/ SumioBaBa -(2025/03/30(Sun) 01:58:21)
        「真如」ですべてがトートロジー(3)
     
     量子力学の「多世界解釈」で説明してみよう。量子力学以前の科学では、我々の住む世界W1だけが唯一の存在であるとする「単世界解釈」が常識であった。W1は無矛盾であり、大量の情報を持っていて、何が真で何が偽かを記述するための無矛盾な論理として「古典論理」が有用である。ただW1では、論理的必然性も無いのに多数の○○○について、なぜか「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけが実現しているように見える。それゆえ、《状態選択の謎》=「なぜ「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけが選ばれて実現しているのか?」、《存在選択の謎》=「なぜW1は「存在しない」ではなく「存在する」の方だけが選ばれているのか?」というアポリア(答の見付からない謎)が山積みであった。

     ところが量子力学が「多世界解釈」に気付いた。我々の世界W1だけでなく、存在し得るすべての世界W1、W2、W3、…が存在すると考える。ただし、どの世界W1、W2、W3、…も確率的存在に過ぎず、どういう視点に立つかで「存在する」「存在しない」「不定」のどれにもなり得る。W1に住む人にとってW1は存在確率1で「存在する」だが、W2に住む人にとってW1は存在確率0で「存在しない」にもなる。W3=(1/√2)W1+(1/√2)W2を満たした世界W3に住む人にとってW1の存在確率は1/2だから「不定」でもある。つまりどの世界W1、W2、W3、…も、「存在する」と認識する視点に立てば「存在する」、「存在しない」と認識する視点に立てば「存在しない」、「不定」と認識する視点に立てば「不定」、というトリプル・トートロジーが成立しているだけである。「存在する」だけが選ばれている訳ではないので、《存在選択の謎》は事実誤認だったこととなって消滅する。

     これらを、「多世界解釈」W0=W1+W2+W3+…〔色即是空・空即是色〕と書く。W1、W2、W3、…は無矛盾な「色」であるのに対し、W0だけは有矛盾な「空」である。そして、W1では「○○○である」が実現している場合でも、W2、W3、…の中では「○○○でない」や「不定」も実現している。するとW0=W1+W2+W3+…全体の中では、「○○○である」と認識する視点に立つと「○○○である」、「○○○でない」と認識する視点に立つと「○○○でない」、「不定」と認識する視点に立つと「不定」、のトリプル・トートロジーが成立しているだけである。「○○○である」だけが選ばれている訳ではないので、《状態選択の謎》の方も事実誤認だったこととなって消滅する。

     真の世界である「空」W0は完全無限定・完全無情報であり、「「○○○である」が真で「○○○でない」が偽だ」といった情報を1ビットも持たない。だから「空」W0には、「「○○○である」と「○○○でない」のどちらが真か?」という謎は無いし、「「○○○である」が真で「○○○でない」が偽だ」という答も無いし、「なぜ「○○○である」が真で「○○○でない」が偽なのか?」というアポリアも発生しようが無い。我々の世界である「色」W1だけが唯一の存在だと考える「単世界解釈」だと、《存在選択の謎》や《状態選択の謎》が存在するかのように誤認してしまう。しかし、「多世界解釈」を採り、真の世界は「空」W0の方だと気付けば、すべてのアポリアはトリプル・トートロジーに解消されて消滅する。トートロジーは「空」W0について何も情報をもたらさないから、相変わらず「空」W0は1ビットの情報も持たない完全無情報である。「空」W0には「これが真理だ」という《定理》も存在しないから、それを証明するための《公理》もまた、何一つ必要ではない。

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■41662 / )  「真如」ですべてがトートロジー(4)
□投稿者/ SumioBaBa -(2025/04/01(Tue) 10:02:53)
        「真如」ですべてがトートロジー(4)
     
        真如はあらゆる○○○についてa「○○○である」+
        b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1)   …[0]
    と表現した。これはトートロジーであった。「真如」を「真の世界「空」W0」と表現しても良い。
        真の世界「空」W0はあらゆる○○○についてa「○○○で
        ある」+b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1)…[1]

     存在し得るすべての世界W0、W1、W2、W3、…をWi(i=0、1、2、3、…)とし、[0]において「○○○である」=「Wiである」、「○○○でない」=「Wiでない」とおくと、「真如」はすべてのWiについて確率的に「Wiである」にも「Wiでない」にもなり得る。つまり、
        存在し得るすべての世界W0、W1、W2、W3、…のそれぞれが、
        a「存在する」+b「存在しない」(0≦a≦1、0≦b≦1)…[2]

     「多世界解釈」=「多精神解釈」と解釈しても良い。「世界」=「心」と見なし、世界W0、W1、W2、W3、…を心M0、M1、M2、M3、…で置き換えて、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕。存在するのは「神」だけである。「絶対的真如」の「空」M0が「神」の本来の姿であり、無情報(無意識)状態である。「条件付き真如」の「色」M1、M2、M3、…は、特定の情報を持った有情報(有意識)状態の心であり、「神」(ブラフマン)が見ている夢である。人間の心(アートマン)も「色」M1、M2、M3、…の方に含まれ、「神」自身が見ている夢に他ならない。物質世界は夢の中の幻(マーヤー)に過ぎず、実在しない。インド哲学でいう「梵我一如」である。「神」のは定義は「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素する集合{M}」になる。「神」=「空」(M0)+「色」(M1、M2、M3、…)=「真如」だから、[0]の「真如」を「神」に変えても良い。
        「神」はあらゆる○○○についてa「○○○である」
        +b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1) … [3]
    これが「梵我一如」を、採らない場合の、最も一般的な「神」の定義である。「神」の定義自体が〔仮説〕ではなくトートロジーなのだから、論理的必然性で外れようがない。

     さらに[2]で「世界」→「心」と置き換えると、次の[4]になる。これもトートロジー。
        存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…のそれぞれが、
        a「存在する」+b「存在しない」(0≦a≦1、0≦b≦1)…[4]
    また[3]において、「○○○である」=「存在する」、「○○○でない」=「存在しない」とおくと次の[5]になる。もちろんこれもトートロジー。
        「神」はa「存在する」+b「存在しない」(0≦a≦1、
        0≦b≦1) …[5]

     以上、[0][1][2][3][4][5]のすべてがトートロジーである。最も一般的な[0]から、他の[1][2][3][4][5]はすべて導かれる。「世界の真の在り方」が「真如」だと見抜き、「量子論理」を用いて正しく記述すれば、「神」と「世界」の謎が、すべてトートロジーに解消できた訳である。

     例えば[4]は、以下の<1><2><3><4>すべてを確率的に含んでいる。
        <1>{M}の要素すべてが「存在する」。
        <2>{M}の真部分集合{Ma}だけが「存在する」、補集合{Mx}は「存在しない」。
        <3> 1人の人間としての自分の心M1だけが「存在する」(M1の独我論)。
        <4>{M}の要素すべてが「存在しない」。
    あらゆる可能性を網羅し、それらの中のどれかが真理だと主張しているのが[4]だから、決して外れようがなく、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)になる。


     パニチェさんへ

    《SumioBabaの主張》=「[0][1][2][3][4][5]はトートロジーであり、これらを用いて《存在選択の謎》も《状態選択の謎》もトリプル・トートロジーに解消され、事実誤認だったこととなって消滅した。」です。この主張に誤りが「ある」のか「ない」のかを見極めて下さい。

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