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「真如」ですべてがトートロジー(1)
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□投稿者/ SumioBaba -(2025/03/27(Thu) 05:09:12)
| 「真如」ですべてがトートロジー(1)
大乗仏教で「真如」(しんにょ)という言葉がある。「世界の真の在り方」といった意味であり、世界の存在と状態の謎について、究極の真理を直観で見抜いていたように思われる。
そもそも世界は、どんな状態でなければならないという論理的必然性も無いし、「存在する」と「存在しない」のどちらでなければならないという論理的必然性も無いのではないか? だとしたら、何一つ論理の飛躍をしないために、世界は本来あらゆる○○○について、「○○○である」「○○○でない」「両方」「片方」というすべての可能性を持っていた、と考えてみるべきである。実際に「真如」は、どんな○○○についても「○○○である」と「○○○でない」の片方に限定されていなかった、と説明される。
仮に世界の初めとしての「真如」が、論理的必然性も無いのに、なぜか「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけにすでに限定されていた、と考えてみよう。真理を片方だけに限定する場合は、ただの仮説になってしまうため、まず〔仮説〕=「世界の初めは「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だった」を証明せねばならない、という立証責任が発生してしまう。仮に実験・観察によってこの〔仮説〕が正しいらしいと判明しても、それは自分が住む世界W1についてだけの話だし、新たに《アポリア》=「論理的必然性も無いのに、なぜ世界は初めから「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されていたのか?」という謎が発生する。そして「そんなの知るもんか。なぜかそれが真らしいのだから、それをそのまま受け入れるしかないじゃないか。それが科学というものさ。」で終わるしかない。これがいわゆる「科学の限界」である。「真如」は見事に「科学の限界」を超越している。「真如」は何一つ限定されていないのだから、《アポリア》は一切発生しようが無いのである。
《メタ・アポリア》=「真如が「無限定」だというのなら、「無限定」と「有限定」のうち、「無限定」だけにメタ限定されているではないか?」と反論したくなる。しかし、それも違う。「真如」は本来完全な「無限定」(正)であり、これを「絶対的真如」と呼ぶらしい。しかし「真如」は、「無限定」(正)だけにメタ限定されることもなく「有限定」(反)にもなれることで、世界の様々な森羅万象にも化けることができ、これを「条件付き真如」と呼ぶらしい。つまり、「無限定」(合)=「無限定」(正)+「有限定」(反)、そして、「真如」(合)=「絶対的真如」(正)+「条件付き真如」(反)、という止揚(アウフヘーベン)である。だから、《メタ・アポリア》も発生しない。
ただ大きな問題がある。「古典論理」(「真」と「偽」の二値論理)で「真如」を定義しようすると、あからさまな矛盾となり、定義できないのである。実際「真如」が何なのかは、言葉では表現できないとされる。言葉で「「真如」は○○○である」と表現してしまうと、「○○○でない」ではなく「○○○である」の方だけに限定されてしまい、何も限定されない「真如」の記述に失敗してしまう。言葉では表現できないものは、科学の研究対象にはなれない。だから仏教は、「真如」を言葉で説明することを放棄し、瞑想や座禅、読経や写経、念仏や呪文などの方法により、「真如」を心で感じ取ろうとする宗教になってしまったようである。しかし「量子論理」(a「真」+b「偽」、0≦a≦1、0≦b≦1、の多値論理)を使えば、「古典論理」では記述できなかった「真如」を完璧に記述可能になる。こう表現すれば良いのである。 真如はあらゆる○○○についてa「○○○である」+ b「○○○でない」(0≦a≦1、0≦b≦1) …[0]
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