□投稿者/ knowingitself -(2025/03/25(Tue) 13:02:32)
| パ二チェさん レスありがとうございます
>>>>全世界の音を鳴らす人のすべての音は、それと認知しうる。認知されうるものとして鳴らされる。 >>>>神の全知とはそういうことではないか。 > >>どの楽器でも、例えばピアノなら、 > >>世界中で数えきれないほどピアノを弾く人はいるわけだ。 > >>そこで鳴らされた音は、すべて、認知され、識別され、理解される音として生まれる。 > >>ありえない架空の想定だが、常に傍らに天才的に耳の良い教師やリスナーがいて集中力を研ぎ澄ませているなら、その認知や識別、理解からまぬかれることはできない。生涯で鳴らすすべての音が対象になる。
↑この二行ですね、下記のパナチェさんの疑問は。この文章は補足の意味での付け足しでしたが、なかった方がよかったかもしれません。「傍らに」教師やリスナーはいてもいなくてもよいからです。架空の想定をしなくても、 すべての音は認知や識別の可能な音として生まれているからです。傍らに耳の良い人がいれば、それを逃しませんが、傍らに人間は誰ひとりいなくても、確実に認知や識別可能な音としてそこにあったからです。
> ここなんですよ。 > ありえない架空の想定をする時点で「はじめに全知全能の神ありき」だと思うのです。
全知全能の神の捉え方ですが、「現象が特定可能、認知可能、識別可能なものして生まれ、消滅する地平」のようなものとして捉えることができるのではないか?このような問題意識から「全知全能の神」を捉えているのが、今回の私の書き込みですね。
この「地平」はたしかにはじめにあるものですが、この地平を否定することははたしてできるのだろうか? と思います。
> 上記は演繹的な説明であって、帰納法的な説明にはなりえないと思うのですが如何でしょうか。 >
たしかに、帰納法的な説明にはなりえないと思います。
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