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No40957 の記事


■40957 / )  Re[28]: 般若心経
□投稿者/ 時 -(2025/02/13(Thu) 17:25:53)
    2025/02/13(Thu) 20:32:29 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。

    大乗仏教の教義とともにそれが誕生した経緯を知りませんでしたので、とても興味深く読ませていただいています。^^

    No40940に返信(akaimiさんの記事)
    > 「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)
    > これが、釈迦の説いた「空」です。一見、「色即是空」ととてもよく似ています。
    > そのため、ときおり、『般若心経』が説く「空」は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。

    このあたりの漠然とした違いではなく、原始と大乗との対比からくる空のはっきりとした区別は、原始のみの経典からでは読み解けないことですね。

    > 真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    > これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。

    www.youtube.com/watch?v=VLiFmTujoVc&list=PLmwYOQLkF8YgOUHA24lG2-JueW4nri2fB
    こちらのシリーズ他の動画を見ましたが、佐々木先生には珍しくはっきりとした表現をされていますね。もちろんこの切り取り方をすればこのような表現にもなると思いますが、少しだけ引っかかったのが「真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。」というところですが、これも空の大乗との比較により生まれた表現だろうと思いました。

    私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。

    ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    これは、空ではない存在と空なる非存在との各認識の体得になるでしょうか。つまりは、何か一つを認識対象とした場合に、それは存在して空ならざるもの。それ以外を非存在としての空と表現しているのだと理解しています。

    それと存在と実在の言葉の表現ですが、これは、語元をたどるとどうも同じ語元を存在、実在と文脈により使い分けているような気がします。丁度、無我と非我の語元が同じで訳文にするときに訳者の感覚で使い分けている事と同じような気がしました。

    これで冒頭の「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)ということを考察しますと、この世のもは空であると観るならば、死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は、見ることがない。ということで、仏陀は、輪廻の終焉を目的として説いているのだと思いました。

    > 仏陀も「空」については説いていた(スッタニパータにも「空」は出てくるしと)、と漠然とこれまで考えていましたが、仏陀の「空」の意味はこういうことだったのかと今更ながら確認できました。
    > 「集積し絡まりあってできている何ものか」というのが引用中にもありますが、実在とされる「五蘊」などとして示される諸要素の組み合わせによって因って起こる、したがって「空」なのだ、ということなのだと理解しました。(a)

    > では、『般若心経』では何を「空」だとしているのか、になりますね。(a)

    > ・・・・・
    > それは、こういうことです。大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思い込んでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし、彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも実在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。

    >  要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空」がことさらに重視された理由です。
    > ・・・・・
    > 同書p57より引用

    > 同書p10〜p11に『般若心経』全文が出ています。
    > 以下で、そこから、仏陀が実在としたとされる「五蘊」「十二処」「十八界」も「空」だとしていると思われる部分を抜き出してみます。

    > 色不異空空不異色
    > 色即是空空即是色
    > 色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相
    > 不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃無意識界

    > 同書p135に。
    > ・・・・・
    > 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    > ・・・・・
    > とあります。

    > 『般若心経』の中に「無」がたくさん出てきますが、これは、仏陀が世界の構成要素として区分したもの、それらの「区分は本当は無い」と言う意味での「無」だということなのかもしれません。。
    > とりあえず暫定的にそのように理解しておこうと思うので、間違えているかもしれませんが、このまま投稿とします。(a)

    > ちょっと思ったのは、「名づけられる前の世界」ですかねぇ。
    > 様々に分類され名づけられる前の世界。それが『般若心経』が語る世界ということになるのかな。。だとしたら、「因果関係」というものも無化されますね。(a)

    原始に、婆羅門の一人が仏陀に対して「私は自己による行為は存在しない。他者による行為は存在しない」という見解の持ち主です。といいます。これに対して仏陀は「そのような見解は見たくも聞きたくもありません」と完全否定している経典があります。

    > 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。

    自己による行為、他者による行為という区分を存在しないということで否定した婆羅門の見解を仏陀は否定しましたが、多分、般若心経の中での世界観では肯定するということでしょうか。。

    まるで、スタート地点とゴール地点が同じなのだから、ここから長いマラソンはしなくても同じ位置だといっているようにも観えますね。ということで、今のところ、見方によれば大乗の空の思想は、なるほど仏教哲学としての最たるものなのかもしれないなぁと思いました。

    www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw
    今となっては、「阿含経」で生きる人、「般若心経」で生きる人。それぞれで良いのではないでしょうか。無常なる様相の世界観で生じたものは必ず滅するのですから。

    今のところ私の知る範囲でのインド哲学の中でのもので、空の思想はやはり四句分別の4番目である不一不二の領域としか認識できないですかね。雑感としては、私が一番知りたかった仏陀の時代からどのように、なぜ根本分裂が生じたのか?という明確な史料がないようで、そこは少し残念でしたが、少し前に佐々木先生の教室で講義を受けていたのであれば、、私としては、いろいろと楽しかっただろ言うなぁと思いました。^^
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