□投稿者/ akaimi -(2025/02/12(Wed) 15:55:02)
| 2025/02/12(Wed) 16:08:06 編集(投稿者)
100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 をもとに、今日は、仏陀の「空」と『般若心経』の「空」の違いを知り、投稿とします。
・・・・・ 「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119) これが、釈迦の説いた「空」です。一見、「色即是空」ととてもよく似ています。 そのため、ときおり、『般若心経』が説く「空」は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。 ・・・・・ 同書p49より引用
そうなると、まず仏陀は何を指して空だと言っていたのかを知らねばなりません。(a)
・・・・・ 釈迦という人はたいへん精緻な論理思考の持ち主であり、この世の本当の姿を理解するために、独自の方法で全世界を分類してみせました。実際に釈迦本人がやったかどうかは疑問も残りますが、ともかく「釈迦の仏教」では、この全世界が厳密に整理分類されているのです。 ・・・・・ 同書p49〜p50より引用
具体的には、「五蘊」「十二処」「十八界」という分類。 ここについては読んで理解するだけにしました。 投稿にすると長くなるし、たくさんの引用になってしまうので。(a)
・・・・・ では、これらの分類にもとづいて、「釈迦の仏教」はどのように世界を認識していたのか、具体的に例をあげてみましょう。なぜ十二処や十八界が世界の構成要素になるのか、という話です。 たとえば、道端に「石」が落ちているとします。私たちは目でその「いろ」や「かたち」を認識し、手に拾いあげて感触や重さを味わいます。二つの石を打ち合わせて硬さを確かめたりもします。そのとき、多くの人は、自分が手に持っているものは「石」という絶対的に確固たる物体であり、色や形や手触りなどは、その石に付随している「属性」にすぎないと考えます。「石に、いろやかたちや固さがある」と考えるのです。しかし、釈迦はそうは考えません。反対なのです。絶対的に実在しているのは目や手がとらえた「いろ」や「かたち」や「手触り」のほうであり、「石」というのは、それらを心の中で組み上げた架空の集合体にすぎないと考えるのです。 今は「石」を考えましたが、「私」だったらどうでしょうか。「私」もまた「石」と同じです。いろやかたち、手触りや温度、重さなど、様々な基本要素を集積してできている「仮りの姿」です。人の場合は「肉体」だけでなく、そこに心というものも加えなければなりません。「認識」とか「思考」とか、あるいは「執着」とか「怒り」とか「感性」とか、様々な心的作用も、その集合体の要素になっているのです。集積され、絡まりあってできている「何ものか」です。 (中略) この「石」や「私」の例からわかるとおり、この世に実在するのは「眼」「耳」などの認識器官、「色」「声」などの個別の認識対象、そして「心」や「心の作用」といった内側の諸要素だけなのであり、われわれが普段、そこに実在すると思っている様々な対象物は、それらを寄せ集めた架空の存在、実体のない虚像だというわけです。 真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。 これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。 ・・・・・ 同書p54〜pp57より引用
仏陀も「空」については説いていた(スッタニパータにも「空」は出てくるしと)、と漠然とこれまで考えていましたが、仏陀の「空」の意味はこういうことだったのかと今更ながら確認できました。 「集積し絡まりあってできている何ものか」というのが引用中にもありますが、実在とされる「五蘊」などとして示される諸要素の組み合わせによって因って起こる、したがって「空」なのだ、ということなのだと理解しました。(a)
では、『般若心経』では何を「空」だとしているのか、になりますね。(a)
・・・・・ それは、こういうことです。大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思い込んでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし、彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも実在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。 要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空」がことさらに重視された理由です。 ・・・・・ 同書p57より引用
同書p10〜p11に『般若心経』全文が出ています。 以下で、そこから、仏陀が実在としたとされる「五蘊」「十二処」「十八界」も「空」だとしていると思われる部分を抜き出してみます。
・・・・・ 色不異空空不異色
色即是空空即是色
色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相
不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃無意識界 ・・・・・
同書p135に。 ・・・・・ 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。 ・・・・・ とあります。
『般若心経』の中に「無」がたくさん出てきますが、これは、仏陀が世界の構成要素として区分したもの、それらの「区分は本当は無い」と言う意味での「無」だということなのかもしれません。。 とりあえず暫定的にそのように理解しておこうと思うので、間違えているかもしれませんが、このまま投稿とします。(a)
ちょっと思ったのは、「名づけられる前の世界」ですかねぇ。 様々に分類され名づけられる前の世界。それが『般若心経』が語る世界ということになるのかな。。だとしたら、「因果関係」というものも無化されますね。(a)
・・・ 投稿中の (a)が後についている文章は、私の頭の中のつぶやきになります。
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