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No40810 の記事


■40810 / )  Re[6]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/01/29(Wed) 20:06:59)
    カントの『純理』では、人間の「認識」について考えている、ってわたし見てる。

    No40052 の(資料b)のなかに、
    〔カントにおいて,認識(Erkenntnis)とは一般に「経験的認識」即ち「経験」 (Erfahrung)のことを意味する.従って認識の可能性とは,経験の可能性を意味する.〕
    ってあって、わたしひとまずこう見てる。

    これ、わたし
    No39935の、2才児kちゃんの「これ、リンゴ」で見てる。
    「これ、リンゴ」って言うの、「経験的認識」じゃないかしら?
    カントは、2才児に、この「これ、リンゴ」が可能になるのは、「純粋悟性」〈経験によるものではない、経験的なものをいっさい含まない(純粋)、ただ思考の中から生み出されてるもの〉っていうのあって、その「純粋悟性」っていうのには「アプリオリな形式」〈生まれつき備わってる仕方〉っていうのがって、っていうのを想定したんじゃないかしら?

    2才児において、「これ」と「リンゴ」〈概念-分類(語)〉が結びつけられること(「これ」を認識すること)が可能となってるのは、「純粋悟性」っていうのがあるはず、がなければならないはず、でなければならない、的な?

    でも、「純粋悟性」は「経験的認識」とはいっさい関わらないもとして想定したわけだから、両者を別ものとしてもよかったんじゃないの?ってわたし思うんだけど、でもカントはそうしなかったのね。っていうのはね、「実践(理性批判)」と結びつけたからじゃないかしら?「実践」っていうの、わたし“経験における“とも見れるし。

    でね、『純理』では、「経験的認識」と「純粋悟性」を結びつける必要が出て来るわけ。
    でね、これを“証明”しようと、カント超真面目に考えたんじゃないかしら?

    わたしのばあい、
    〔「○○」は「△△」である〕を「経験的認識」ってして見てる。
    「○○」から「△△」への移行が、「○○」を“疑いの余地のないもの(信念)”として「△△」へと移行してるかどうかを「フィロソファー」(知ることを欲する者―日本語の「哲学者」とは区別する意味でね。ある意味、知ることを欲する赤ちゃんも含まれるよ)は問うているんじゃないかしら?

    「○○」や「△△」にいろんなもの入れることができると思うんだけど、
    [〔「○○」は「△△」である〕をもうすでに真なるもの]として前提としてしまったことからの感情や思考っていうのもあるかも?
    でも、[そこ]から出発していいのかしら?って、ね。

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