□投稿者/ 田秋 -(2024/03/24(Sun) 21:17:26)
| こんにちは、floraさん
3月17日に貼った https://true-buddhism.com/history/genjo/ に、玄奘が辿ったルートの地図があります。敦煌の少し右に逆向きの矢印(←と→)書いてありますが、行きは高昌〜亀茲を通る北側ルート(天山南路)を取りました。帰路に海路を取らなかったのは高昌国の王・麹文泰と「帰りに必ず寄ります」という約束をしたからです。
麹文泰は熱心な仏教徒で玄奘が高昌国に来た時、手厚くもてなしました。しかしその情熱は度が過ぎていて、玄奘に天竺に行くのは止めにしてこの地に留まり仏法の講義をすることを頼んだのです。しかし玄奘の意志は変わるものではありません。 王は脅迫まがいなことも言い出します。 「私の許可がなければこの国からでることはできません。或いは師を唐へ送り返すこともできるのです」 玄奘 「無理にお止めになっても骨がここに残るだけで精神は王の自由にはなりません」 しかし、王は許さず、自ら食事を運ぶことにしました。 そこで玄奘は断食の道を選び、三日間呑まず食わずの行に入ると4日目、遂に王は深く恥じ 「師よ、どうか自由に西行して下さい」 そして 「帰還の日、どうかこの国に3年留まり弟子(わたくし)の供養を受けて下さい」 玄奘はこの申し出を受け入れました。 この約束をまもるため玄奘は陸路で帰途に着いたのです。
高昌国はしばらくは唐と良好な関係を続けましたが、その後近隣諸国との軋轢が色々あり、それが原因で唐の太宗に攻め込まれ、麹文泰は病死し(640)、結局高昌国は滅亡しました。
一方、玄奘は天竺で10年研鑽を積み、帰国の途に着いたのは641年頃です。この時、高昌国滅亡のことはまだ知りません。そのためもと来た道を帰ることになります。
帰路の途中で高昌国滅亡のことを耳にしました。そこがどこだったのか正確には知りませんが、西域南道の道を取る少し前だったのでしょう(ガンダーラの辺り?)。
麹文泰との約束を守る意味もなくなったため、玄奘は天山南道に比べるとまだしも進むのに容易な西域南道で唐に戻ることになります。
海路を取らなかっのは以上の理由からです。
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