□投稿者/ 時 -(2024/02/03(Sat) 23:56:54)
| パニチェさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。レスが前後しましたが、ご容赦ください。
■No36399に返信(パニチェさんの記事)
> 美術に疎いところがあり、ロダンの考える人に「地獄門に座り、頬杖をしながら地獄に堕ちた人々を見つめている」という説もあったのですね!
はい。何か多くの解釈があるように思います。
> 全然知りませんでしたし、私にとってはロダンの考える人を鑑賞するにあたって、もの凄い視点の転換でした。
それは、良かったです^^ 私の場合は、特別ロダンの”考える人”について考察することはなかった中、その方の言葉の中でたまたま”考える人”が出てきましたので「なるほど、そんな風に見えているんだなぁ」といった感想しかありませんでした。
ちなみに、ロダンの”考える人”について、パニチェさんはどのようなイメージを持たれていたのでしょうか?
> 考える人自身が悩める人ではなく、地獄に堕ちた人々を眺めている。
はい。その方の視点では、周りの多くの方が無理解なので導きたいが導けない状態で試行錯誤しているというような事だったと思います。だから考え込んでいる像と自らが重なったのだろうと思います。
> 深いですね。。。この像が何故有名なのかがほんの少し分かりました。 > SNSの有様を見て、ロダンの考える人を思い浮かべた時さんにも(僭越ながら)感心しました。
恐縮です^^
今回は、”考える人”についての時個人の想いを書いてみたいと思います。
イタリアの詩人ダンテの地獄篇・煉獄篇・天国篇の3篇からなる神曲を、三次元で具現化したロダンの地獄の門について、神曲未読感想文を書いてみたいと思います。
ざっと調べましたところ、神曲は、人生の進むべき方向を見失ったダンテが、導人とともに地獄、煉獄、天国を旅して、最終的に神の愛を知るまでのお話のようです。
この叙事詩を題材に具現化したものが、ロダンの地獄の門という作品なのでしょう。
単発で見ると、下から地獄の様子、中央に”考える人”、上部には3人の人らしきものがあります。全体像としては、やはり題材自体が最終的に神の愛を知るまでのお話という事で当時のキリスト教基盤で創造されているように思えます。多分、上部の3人の人らしきものは、三位一体という事で天国(神)を意味するのでしょうか。
問題は中央の”考える人”ですが、これはロダンがダンテの作品への思いを想像し、同時にロダン自身の過去への振り返りを行いつつ、見る人にも多くの面積を使い嫌でも地獄の様子を見せつけることで各人自らによる反省を湧き起こさせるような存在に見えました。
つまり、”考える人”は、ロダン視点でのダンテの思いであり、ロダン自身の心の葛藤や反省でもあり、見て何かを感じる人夫々への反省への促しにもなるでしょう。そして彫刻の全体像として全てが神の愛。神はすべてです。という事にもなるのでしょうか。
下の地獄界の様子をぼんやりと眺めつつ、自らの過去の行いの是非を問いつつ反省している様子、人の意志では何も所有できないという事で何も身に着けずにただ座って思案し、時として考え、振り返っている姿。それはそれぞれその彫刻を見る人の心の状態により変化するように思えました。
最後に、”考える人”は、ただ地獄界を眺めているだけではなく、何かに悩んでいるのでもなく、憂いているのでもなく、ただぼんやりと地獄界を眺めつつ自らの過去の行為について振り返りつつ、最終的には神がすべてだとも理解しつつ、反省しつつしている姿だと私は感じました。
”考える人”単体で見るとそれなりの解釈があり、地獄の門の中の”考える人”と見ると、また違ったものが見えますね。
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