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No36228 の記事


■36228 / )  Re[25]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/01/20(Sat) 10:29:31)
    2024/01/22(Mon) 09:34:04 編集(投稿者)
    2024/01/21(Sun) 09:04:08 編集(投稿者)
    2024/01/21(Sun) 08:52:27 編集(投稿者)
    2024/01/20(Sat) 10:33:11 編集(投稿者)
    No36150に返信(restさんの記事)
    > 2024/01/14(Sun) 09:12:12 編集(投稿者)
    > ■No36029に返信(restさんの記事)
    >>■No34818に返信(restさんの記事)
    > >>2023/10/29(Sun) 22:29:54 編集(投稿者)
    > >>
    > >>時間論の系譜には二つある。
    > >>哲学者マクタガートにおけるA系列、B系列、C系列の捉え方、とカントの時間論。
    > >>前者はA系列のA特性と出来事のB特性が矛盾し従ってA系列の時間は実在せず、B系列=A系列+C系列なのでA系列が成り立たない以上B系列も成り立たない。残るはC系列のみである、とする考え方。映像フィルムのようなC系列のみが実在し、変化を示すA系列を幻想とした。(入不二基義 著『時間は実在するか』講談社現代新書 参照)
    > >>次にカントの時間論。まず空間はすなわち三次元空間は唯一無二であること(『純粋理性批判』B39)これは何を意味するのかというと過去も未来も無数の三次元空間から成り立っているとする過去実在論、未来実在論と一線を画する考え方である。現在時における現実の三次元空間がただ一つだけあって過去、未来の三次元空間は実在しない。無数ではない。この唯一無二の空間が永遠に存在し永遠の現在が示される。時間とは社会的約束事であり実体はない。「時間に絶対的実在性を認めることは不可能である。時間は我々の内的直観の形式にほかならない」(同著 B54)
    > >> 後者は私のカント解釈である。
    >>
    >>追記。「予知夢」というのがあって、未来の実在性の根拠としている人もいるが、はたして根拠たりえるだろうか。予言の当たる確率というところを検索してもらえればわかるが科学的観点からみると予言の当たる確率は非常に低い、むしろ当たらない確率が高い。予言(予知夢)が当たったとされる事例は科学の前提である再現性はなく、科学的分析では偶然の一致、認知バイアス、後付けの解釈などによって説明されることが一般的。予知夢では未来の実在性の証拠たりえない。
    >> 「来年のことを言ったら鬼が笑う」、「一寸先は闇」というように未来の非実在性こそ現実的のように思えるがどうだろうか。キリスト教のヨハネの黙示録に示されるような終末預言を信じておられる方もいるが、旧約聖書のヨナ書において神が預言を撤回される場面があるので、同じように黙示録的預言を撤回される可能性もある。つまり未来は映像フィルムのように決定論的に実在するのではなく、神の計画(意志)として存在していると考えたほうが自然だろうと思う。
    >>
    >>時間の非実在性を前提にすると(ただし同じ時間の非実在性を説くマクタガートのc系列の映像フィルムのような時間観と違って)過去も未来も実在しない「永遠の現在」が見えてくる。「永遠」は確かに自覚できるけれども自己の存在は永遠ではない。やがて「死」が訪れる。死後「無」になる恐怖はないだろうか。仏教では「無記」というかたちで思考停止する。修行の邪魔になるので考えるな、ということらしいが「無」の恐怖は修行で消えるだろうか。
    >
    > 追記2.三次元空間の唯一無二性、ただひとつの空間というのが「永遠の現在」の根拠であるが、永遠でない生命の「死」は三次元空間の本質であるところの「無」へ回帰する。非永遠の存在の「死」は永遠の「無」へ導かれる。
    >  もし命が永遠なら、命の価値、「尊さ」は認識されない。医学も不要になるし、保険会社もつぶれる。永遠ではない、限られた命だからこそ、命を惜しみ、命を尊ぶのかもしれない。しかし自分の身近なひとには長生きしてもらいたい、できれば永遠の命をと思うかもしれない。永遠は無条件に尊いとも思っている。非永遠には非永遠の価値があり、永遠には永遠の価値があるということか。
    >  「三次元空間」の本質は「無」とも「空」ともいわれている。仏教においては般若心経の「色不異空。空不異色色即是空。空即是色」として説かれ、キリスト教では旧約聖書の『伝道者の書』に「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」と示されている。
    >  「無」の空間は存在するので「有」でもある。論理的には矛盾して成り立たないが、現実的には成り立っている。「無」は「有」でもある。これは何を意味するのだろうか。死んだら「無」になる、というのは死んだら「有」でもある、ということか。まるでシュレディンガーの猫のようだ。
    >
    >
    追記3.『東京物語』で有名な小津安二郎監督の墓が鎌倉の禅寺にある。その墓碑銘には『無』とだけ記してある。非永遠の命を受け入れ、「無」の世界を受容する境地だったのだろう。死後「無」を受け入れ、命の尊さを知るゆえの諦めなのかもしれない。死の意義を深く自覚するということだろうか。死後の「無」には意味、価値があると。
     しかし凡夫は永遠の沈黙に耐えられるだろうか。どうしても死後の「無」への恐怖 が生じてしまう。そこで死後の生の可能性を考えてみることにする。まず「無」は存在するので「有」である。物質を無限分割するとゼロになる。それは「無」のもつ「有」の性質である。形はないが確かに存在する「有」である。それはあらゆる物質の生みの親、出発点であると考えられる。だから死後「無」は別の生の可能性を含んだものと考えられる。生まれる前の「無」は「有」であり、存命中も「有」であり、死後の「無」も「有」である。たぶん記憶はないが自己意識は永遠に続くかもしれない。凡夫にとってはそれを信じるしかない。
     永遠の三次元空間をのぞいて、あらゆる事物は変化する。ひとの命も。平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」とあるごとく「諸行無常」ということのようだ。万物流転が宿命か。
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