□投稿者/ アートポット -(2023/10/19(Thu) 13:44:11)
| こんにちは、うましかさん、みのりさん、(敵対関係の)マジモンさん
> ところで、アートポットさんの問い「どうすれば世界に遍在できるのか?」の「遍在する(遍在している)」は、「全知である」を意味するということなんですね(;´・ω・)
ひきこもりのアートポットのみが実在するなら広い世界に遍在したいと希望すれば世界のアチコチに居て、旅費も必要なく世界を知ることができるはずというワガママな願いです。全知は、大それた考えで、でも可能性としてアートポットが希望すれば起こりうることではないのかっていうそれほど必要としてはいないアートポットの可能性のひとつです。
■No34180に返信(みのりさんの記事) > 2023/10/19(Thu) 08:41:53 編集(投稿者) > > アートポットさん、横レスで失礼します。 > > >>独我論で考えた場合にアートポットが世界に遍在していない(全知でない)ということはおかしいだろうということです。 >>眼に見えないシナプス ← 証明出来ない。 眼に見えるシナプス(生物のクチコミ記憶共有、或いは電気信号の無意識共有) ← 独我論で考えた場合弱過ぎる。 >> >>しかし、どちらかのシナプスが存在しないと独我論なんてものは有り得ない、とても地味で寂しいアートポットで人生を終えてしまいます。 > > 「独我論で考えた時、アートポット(さん)が世界に遍在していない(全知でない)のはおかしいだろう」、と書かれているところと「独我論」というものの関りがもう一つわからないんです。 > > お借りしたリンクから、独我論について少し引用しますね。 > > ===== > 概説 > 独我論(英: solipsism)とは哲学における認識論の立場の一つ。自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆる存在は疑いうると考える。デカルトが「方法的懐疑」で到達した「今私が考えているということ以外全て疑いうる」という極限の懐疑主義を出発点とし、ジョージ・バークリーの「存在するとは知覚されることである」という現象主義を経て発展した。哲学の歴史上、独我論は認識論における一つの方法論として機能してきた。 > > 各種の独我論 > ジョン・R・サールは独我論を以下の三タイプに分けている。
> 1、心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎないとする立場。
これは、うましかさんの考えに近いと記憶しています。
> 2、他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできなとする立場。
これは、パニチェさんの考えに近いと記憶しています。
> 3、他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれないという立場。例えば私が赤いりんごを見ていたとしても、同じりんごを見ている他人にはそれが青く見えているかもしれないということで、これは逆転クオリアの思考実験として知られている。 > =====
これは、ピピットさんと悪魔ちゃんの考えに近いと記憶しています。
> https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/36.html > > 「自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神現象だけであり、それ以外のあらゆる存在は疑いうると考える。」 > と、最初のほうにありますよね。 > > ここからすると、独我論的には、疑いうる存在である自分以外の精神現象については確信できるものではない、ということが導かれるのだろうと思うのです。 > つまりは、他者がどうのこうのと言うことであったり、他者からの承認なども重視されるものではない、と独我論的にはなるのではないのかな、と私は感じたのですね。 > > このあたり、他の方からもご意見いただくとおもしろいかもですね。 > もちろん、アートポットさんを攻撃するという目的とかではなく、哲学を日常感覚に汎用して考えるとそんなふうなんじゃないべか?的なところや、まったく違う観点からでも。 > > レスはお気遣いなく、スルーいただいても大丈夫です。 >
> まずは、って遅いけど、新規トピ開設おめでとうございます(花束!) >
みのりさん、ありがとうございます。
マジモンさんへ、僕は、家のテレビを視聴する権限すらもっていません。帝国の情報すら入りません。
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