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Re[13]: < >の中はなぜ私なのか?
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□投稿者/ 気まぐれ -(2023/09/23(Sat) 22:22:25)
| パニチェさん
> それは失礼しました。^^;
お気になさらず。
> とんでもありません、全然不躾でも何でもありません。
よかったです。ちょっと唐突すぎたかなと思ったもので^^
> >>〈 〉だけにすると独在性が抜け落ちてしまい、禅宗で言うところの普遍的な見性と区別がなくなります。
> 見性とは悟りのことで禅宗をはじめとした仏教諸宗派では悟りへのアプローチの違いこそあれ(看話禅、黙照禅、阿字観、摩訶止観等々)頂である悟りは普遍的なもの(あるがままの実相、真如、勝義諦等々)とされています。 > > 悟りが普遍的なものであるが故に「印可」という師家から弟子に正しい悟りに到達したという証明が与えられます。 > 有名なところでは「教外別伝」とか「拈華微笑」等々の教説があります。 > > 西田哲学の「純粋経験」も各々が気づいているかどうかはともかく、おそらく普遍的なものだと思いますし、悟りに隣接する状態(境地)ではないでしょうか。 > > 普遍的な見性について書かれた文献にはならないかもしれませんが道元禅師著『正法眼蔵』の「画餅」では見性体験は個人のなすものではないというようなことが記されています。 > > 「諸仏が真理を体験するとき、万物が真理を体験する。たしかに覚者と万物は、表面的に見れば同一のものではない。しかし、真理を体験するとき、おのおのの体験が、互いに妨げあうことなく実現するのである。これが仏道の明確な教えである。それを、諸仏と万物が同一であるか異なっているかという分別によって学んではならない。そのため「一つのことに通じれば、すべてのことに通じる」というのである。一つのことを体験するということは、一つのことが本来具えている姿を奪うことではない。一つのことを他のことと対立させることでも、対立をなくしてしまうことでもない。強いて対立をなくそうすることは、こだわることである。体験することにこだわらないとき、一つの体験は、すべての体験に通じる。このように、一つのことを体験するということは、そのものになりきることである。そのものになりきるということは、すべてのものになりきることである。(誠信書房刊「現代訳 正法眼蔵」よりの引用)」
ご説明いただきありがとうございます。 私は勘違いをしておりました。普遍的な見性ではない見性があるのかと(笑) 読解力が乏しくて申し訳ありません。 見性と<私>は別物で、< >になると見性との区別が無くなると仰っていたのですね。 私には<私>が見性の前段階に思えるのですよね…。 これは私(=気まぐれ)にはまだ<私>を論じる資格はないということなのでしょう。少なくとも<私>を実感している方からはそう見えるのだろうなということです。
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