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Re[19]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/21(Thu) 19:25:03)
| いまは、復習しながら、 No33145の本を読んでるところ。
メルポンが言ってる、『言語は身振り』に倣って、
お喋りは身振り――身体の運動
過去の記述を簡単に引っぱり出せるように、 No27792 No27469
【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】の、 第一部 身体 Y 表現としての身体と言葉(パロール)p289− のところの、 〔言語は意味をもっている〕p292− *************** ところが実は、経験主義的もしくは機械的心理学と、主知主義的心理学との間の、血縁関係の存在に、今再び注目しなくてはならないのである。前者の主張から後者の反論に移ったからとて、言語の問題は解決するものではない。先ほどは語の発生、語心像の復活ということが本質的であった。今やそれらは、真の呼称と内的な作用としての本来の発言の、外被以上のものではない。とはいえ、この二つの考え方は、いずれにとっても語が意義をもっていないという点で、一致している。 第一の考え方においてこの点は明白である。というのは、それによれば語の喚起はいかなる概念によっても媒介されず、与えられた刺激もしくは「意識の諸状態」が神経機構の法則もしくは連合の法則に従って語を呼び起こすことになり、したがって語はその意味も内的な能力ももつことなく、客観的な因果の戯れによって呼びさまされる、心的、生理的、いや物理的とさえいえるひとつの現象、他の諸現象と並ぶ一つの現象にすぎないからである。呼称に範疇的作用を重ねたからといって、事情は変わらない。語は依然としてそれ固有の効力を奪われている。なぜなら、このたびは語は内的な再認の外的な記号にすぎないし、この内的な再認は語が伴わなくても成立することが可能であり、したがって語はそれに何の貢献もしていないからである。語の背後に範疇的作用があるのだから、それは意味を剥奪されてはいない。しかしそれは意味をもってはいない。所有してはいないのだ。意味をもっているのは思惟だけであり、語は依然として空虚な外被にすぎない。それは単なる調音的・音声的現象にすぎないか、あるいはこの現象の意識にすぎない。しかしいずれにせよ言語は思惟の外的付随(ある事物が他の事物につき従っていること)物以上のものではない。 第一の考え方は有意味なものものとしての語の手前にとどまっている。第二の考え方はその向こう側に立つ。前者(経験主義・機械的心理学)には語るひとというものがなく、後者(主知主義的心理学)には、なるほど主体はあるが、これは語る主体ではなく考える主体である。言葉そのものに関しては主知主義は経験主義と殆ど変わらない。そしてこれと同様、自動現象による説明ないしですますことはできない。範疇作用がいったんおこなわれても、それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない。語は生気のない単なる外被だから、この説明は再び生理的、もしくは心的メカニズムによることになる。それゆえ、語は意味をもつという単純な注意によって、経験主義と同じように主知主義も超えられる。 *************** これはあのとき書いてなかったかも?って思って。
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