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理論的または実践的エゴイズム(;´・ω・)
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□投稿者/ うましか -(2023/09/03(Sun) 10:16:04)
| 2023/09/03(Sun) 17:46:04 編集(投稿者)
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』の第二巻「意志としての世界の第一考察− すなわち意志の客観化 」第19節には以下のようにあります(;´・ω・) ※ちなみに内容がわかりやすいように便宜上改行していています。
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>しかし、もろもろの客観は個体にとっては表象としてしか知られていないけれども、これらの個体それ自身の身体と同じように、一つの意志の現われであるかどうか?
この問いこそ前の巻ですでに述べたように〔*1〕、外界の実在性に関する本来の意味なのである。
この点を否定するのが理論的エゴイズムの意向なのであって、かく否定することで理論的エゴイズムは自分自身の個体意外のすべての現象を幻影とみなすにいたる。
これは実践的なエゴイズムがまったく同じことを実践面でおこなうのと同様に、自分自身の人格だけを現実の人格とし、あゆる他の人格を単なる幻影とみなし、幻影として取り扱うことになる。
この理論的エゴイズムは、なるほど証明によってはけっして論駁できない。しかし哲学においては、このエゴイズムは懐疑主義の詭弁としてよりほかには、つまり見せかけのためより他には、用いられたことがなかったことも確かであろう。
このようなエゴイズムを本気で確信している例は精神病院〔*2〕のなかにしか見出されない。これを本気で確信しているとしたら、こういうエゴイズムに必要なのは証明であるよりはむしろ治療であろう。
というわけだから、このエゴイズムにわれわれはこれ以上立ち入ることはしないで、これは論争好きの懐疑主義の立てこもる最後の砦だくらいに考えておこう。− <
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西尾幹二訳、中公クラシックス「意志と表象としての世界T」,p.230〜p.231より引用。 引用中の〔*〕はうましかによる註です。
*1 西尾によれば「表象としての世界の第一考察 − 根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学による客観」第5節を指します。 *2 原語はTollhause。西尾訳はうましか的に好ましくない訳語だったため改めました。
原典は以下を参照。
・https://www.projekt-gutenberg.org/schopenh/weltwil1/index.html の、 ・https://www.projekt-gutenberg.org/schopenh/weltwil1/chap020.html
英訳は、
・https://www.gutenberg.org/cache/epub/38427/pg38427-images.html#toc11
のp.135
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