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No32770 の記事


■32770 / )  時さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/08/31(Thu) 21:29:23)
    時さん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    No32765に返信(時さんの記事)
    > ザビビのふくろうさんへ。こんにちは。レスをありがとうございます。
    >
    > No32764
    >>ああ、ふと思いついたんですが、この6-4とか7-3とかいう割合は、ひょっとすると、どちらの説を支持するかっていう心理的度合いのようなものでしょうか?
    >
    > はい。そうですね。言い換えますと、教えていただいた言語相対主義的な割合のとらえ方になりますね。
    >
    >>もしそうであれば、理論的立場としては不整合ということになりますし、やはり私としては関心がもてないって感じですね。
    >
    > ザビビのふくろうさんのご認識は、了解しました。私個人としては、あまり強固な理論的立場を取りませんので、これはこれでOKという事で。(笑)
    >
    >>少なくとも英語圏の哲学アカデミズムでは、主流は物理主義(唯物論)ということのようです。
    >>それと科学者がどう考えているのか実際はわかりませんが、あえて私見を述べますと、その人個人の考えはわからないとしても、科学という営みそのものが物理主義の立場を方法論の基礎とするものですから、少なくとも科学者としては物理主義である、ということになるのではないでしょうか?
    >
    > はい。そのように思えますね。
    >
    >>私の立場については、前述した言語相対主義的なとらえ方、つまり、唯物論(物理主義)的にも、観念論的(独我論的)にも捉えることは可能だとする立場が一応基本です。
    >
    > ここは、私と同じように感じました。実際に独我の世界に入り込むと、大変興味深い世界が広がりますしね。だからといって物理主義を完全に否定しているわけでもないのですが。ただ、そこから出て見渡してみると、そこには、(各人の自覚とは別に)多くのミクロコスモスの集まりがあり、それらが互いに影響を与えながら入れ替わり立ち替わりしている、まるで星が流れるクラインのツボのように見えたという記憶があります。^^
    >
    > それら多くのミクロコスモスが見えているという事は、これはマクロコスモスなのか?とかいろいろと考えていた時期もありましたが、でもまぁ、これも始まりも終わりもないようなマンデルブロ集合図のようなんだろうなぁと、ここでコスモス関係の妄想は、打ち切られました。(笑)
    >
    >>ただ、思い描かれる世界像としては、唯物論的世界像も観念論的世界像も、どちらが正しくてどちらかが間違いということはないと思いますが、
    >
    > はい。ですので、私個人は、絶対的唯物論や絶対的観念論の両者の言い分の理解はできても、そのどちらにも完全には賛同しきれないのですね。双方がやりあっても、アインシュタインとタゴールの対話の様になるだけでしょうから。ですので、今現在では、強いてというのであればあると思いますが、どちらかの論に完全に偏るというのは・・ないでしょうか。
    >
    >>「私にとってのリアル・リアリティー(現実)とは何か?」という問いの答えとしては、
    >>観念論的世界(ヴァーチャル・リアリティー)がすなわちリアル(現実)ではないか、と今のところ思っています。
    >>このあたりのロジックは勉強中です(笑)
    >
    > その答えが出て、またその機会がありましたら、そのロジックを是非ご教授ください。(笑)
    >
    >>まあそうです。
    >>ただ、偏るというより、そもそも他方を認めない、って感じですね。
    >>つまり、度合いではなく、0か100しかない、って感じです。
    >
    > ありがとうござます。了解しました。しかし私個人としては、通常の0か100の世界観はないですかね。
    >
    >>う〜ん、よくわかったとはいえませんが、
    >>私の上の言い方で言えば、
    >>時さんにとってのリアル(現実)とは四聖諦の問題であって、唯物論か観念論かっていうような哲学的問題は、どちらであろうが「何も問題ありません」ってことでしょうかね(笑)
    >
    > うーん、、よくわかりませんが、、苦のある世界観も現実であり、苦のない世界観も現実ですかね。(笑)
    >
    > 唯物論か観念論かという哲学的問題については、0-100の世界の答え探しだと思いますので、私の分野ではないですね。よって、どちらに転ぼうが、「問題はありません」ですね。(笑)
    >

    まあ、私の場合、思想の意義は真理か否かが基準(自分がどう思うか、ではなく)だから、論理的に両立不可能な絶対的唯物論と絶対的観念論は、0か100かしかないわけですが、
    時さんの場合、思想の意義は自分がどれだけ納得できるかという自分に基準を置いているので、そういう支持の度合いが考えられるんでしょうね。


    > 唯物論か観念論かという哲学的問題については、少しお話がややこしくなりそうですので、この機会に自由意志の有無についてザビビのふくろうさんにお尋ねしたいと思います。
    >

    なんと、今度は自由意志の問題ですか!?(笑)
    私には正直、まずもって時さんには、自由意志の有無なんて問題ではないんじゃないの?って思うのですが。
    仏教の実践に関係あると思えませんしね。


    > まずは、自由意志の定義を、他から束縛されず自らの責任において自発的に決定する意志。(広辞苑)とします。
    >
    > そこで考えたのが、この世の身の周りで起こる出来事の一切(雨が降る、傘を持って出かける、晴れてくる、傘を喫茶店で忘れてくる。ボールを右手で握る、振りかぶって投げる、思ったところにはいかずに家の窓ガラスを破る・・等々)は、因果関係による必然なのか?それとも偶発的に起こる偶然なのかといった事です。
    >
    > そのうえで、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係の中で起こる必然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続け、もしもこの世界で起こること全てが、因果関係とは無関係に起こる偶然ならば、人間の自由意志とは無関係に起こり続けるでしょう?
    >
    > 必然ならば、それは自由意志とは無関係に起こり続け、偶然ならば、それも自由意志とは無関係に起こり続けます。つまりは、この世界で起こり続ける出来事に自由意志は関与できません。そこには、ただただ、私には自由に決定する事ができるのだという思いがあるだけでしょう。仮にその思いの中での決定だけができるとしましょう。しかしこれは・・・この世界での出来事とは無関係なもので、そこにその思いがあるというだけです。この場合の思いとは、自由に決められる、決められないという”思いだけ”があるという事ですね。
    >
    > こう言った意味において、自由意志はある?ない?という哲学的問題について、自由意志はある!(唯物論だ)自由意志はない!(観念論だ)と偏っても、そこには意味がないという事で、今の私の答えは、どちらに転ぼうが「問題はありません」なのですね。(笑)
    >
    > 昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と表現したそうですが、それが「我思う、ゆえに思いあり」だったならば、現在の私でしたらその言葉の解釈として十分にしっくりと来たと思います。(笑)

    私にとっては、独我論はリアリティーのある問題だったので、それなりに勉強したり考えたりしてきましたが、自由意志問題はそれほどリアリティーを感じる問題ではありませんでした。
    もちろん、どうでもいいというわけではなく、それなりに一応自分自身の考えは持っていますが、考えに考えて出した答えというよりは、割とすなおに「これでいいんじゃね?」って思う立場を採っています。

    あまり詳しい議論は必要ないと思いますので、なるべく簡単に。
    私は、自由意志問題は時さんが述べられていることを含めて、大きく言って二つの間違った前提に基づいて生じていると考えています。

    一つは、決定論です。私は、因果的決定論であれ、意志決定論であれ、間違っていると思います。物理的現象は物理的法則に事実として従っていると言えるでしょうが、「したがわねばならない」という必然性はありません。同様に、意志に身体を必然化・強制する力はありません。

    もう一つは、意志(心)と身体(物)を別ものとみなす二元論です。
    この二つの前提から、たとえば行為を決定するのは意志か、物理的因果か、また、意志が行為を決定するとしたらそれはいかにしてか、といった疑似問題が生じていると思うわけです。

    確かに、私の手が私の意志した通りに上がったら、私が手を挙げたと普通言いますが、ここから心としての意志が、挙手の身体動作を決定・引き起こした、ということは帰結しないように思われますね。
    私の手が上がったのは、私がそう意志したがゆえなのか、すなわち私が手を挙げたのか、それともそれは思い込みで、実情は単に物理的因果に基づいて手が上がっただけなのではないのか?
    ですが、これは上述したように、決定論と二元論を採るがゆえに生じる疑問にすぎないと私は思います。
    次のように考えてみましょう。
    私(精神としての自己)は、私(身体としての自己)である。
    つまり、存在論的には同一(一元論)である。精神と身体は私の二側面である。私は精神的存在であり、同時に身体的存在である(当たり前でしょ?(笑))。
    そうすると、「私が手を挙げた」という主観記述した私の動作を、「私の手が上がった」と客観記述することもできるというだけの話、ということになります。
    どちらの記述が正しいというわけではありません。
    これで、「私が手を挙げた(上がらしめた)のか」それとも「(私の意志とは無関係に)私の手が上がっただけなのか」、いったいどちらが本当なのか、という疑問は解消します。
    また、こう考えれば、意志(心)と身体動作は無関係でもありません。
    意志(心)と身体(動作)をべつものとする二元論を採るから無関係にも思えるのです。

    以上を前提すれば、自由意志はあると言えます。
    もちろんここまで言うにはもう少し議論が必要ですが、自由意志にまつわる疑似問題の解消の議論をおおざっぱに説明したところでおしまいにしたいと思います。
    ***************************
    もちろん、提示した議論は、哲学の議論としては全く不十分なものにすぎませんし、十分に練って固まった見解でもないですが、
    一応現在における私の基本的立場はこんな感じだということで、私見についての説明は以上にしておきます。


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