□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/08/26(Sat) 18:38:50)
| LGBTQ、いろいろ調べてわたしの思いつきは、だいたい書いたかな。
LGBTQってどういうの?って思って、いろいろ調べて見てきた。 特に、transgenderっていうの、よくわかんなかった。 「gender」っていう見方考え方があって、でも、そうではない事態があって、それを「transgender」って呼んで、それに対して「cisgender」(こちら側のgender)っていうのが考え出された。
「trans」っていうと、「transzendental」をちょっと想い出す。「transgender」これを〈genderを超越した〉ってして見てもいいかも? ――あ、けっこう言いたい放題かもだけど。
「性」について、ミシェル・フーコー『性の歴史』っていうの読んだことあるのね。 そのなかに、
〔17世紀の初頭には、まだある種の率直さが通用していた、と人は説く。現実の行動において秘密めかそうとすることはほとんどなかった。言葉で言うことを極端に避けるとか、その事柄自体も殊(こと)更(さら)に上辺(うわべ)を繕(つくろ)って行われるとかいうことはなかった。人々は許されざることとある種の寛容な親しさの関係を保っていた。猥褻(わいせつ)なもの、淫らなものの基準(コード)は、19世紀のそれに比べればずっと緩やかだった。直接的な仕草、恥ずかしいとも思わぬ言説、はっきり目に見える犯罪行為。あけすけに体も見せ、簡単に結合させる。ませた子供たちが走りまわっても、大人たちは大笑いするだけで、誰も照れたり恥ずかしがったりしない。つまり誰の身体も、いわば孔雀が羽を拡げるように大手を振って歩いていた。〕 ってあって、 〔そのcommunityにおいて、「許されざること」と「ある種の寛容な親しさ」の関係を保つ。〕 とか、 〔ほどよい関係を保つことによってそのcommunityと個を存続させようとしてきた。〕 のようなことを言っていたと思う。
外国の昔の話しだと思うけど、日本でも昔は“性に対するおおらかさ”みたいなのがあったのかもしれない。 LGBTQを問題とすること自体、すでに“おおらかさ”が失われてしまってるからかも。
フーコーの言う「言 説 (ディスクール)」とは、「表象と制度と一体化し、人々の行動を規制する権力のこと。」だったと思う。 genderっていうのも、権力とまでは言わないまでも、これと似たようなところがある感じがしている。それを、しらずしらずのうちに、自明なこととして、なにも考えずに受け入れてしまってることが問題なのかも。
ウィッキによると、 〔フーコーはHIV/AIDSの合併症によりパリで亡くなった〕 ってある。彼?、Gだった? たぶん、フーコーが生きた当時(1926年 - 1984年ころ)は、「Gはダメ」っていう言説ができ上がっていて、 そういうなかで、生の困難さを感じながら、哲学してたのかも? ――あ、これはわたしの勝手な想像ね。
こういうのがわたしのなかにあるから、 No32198 をきっかけに、LGBTQについて考えて見ようかな、ってなったんかも。
また思いついたことあったら書くかもだけど、ひとまず、LGBTQについてのわたしの物語り、おしまいおしまい〜。
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