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Re[16]: ダンマパダ第五章・『愚かな人』70
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□投稿者/ パニチェ -(2023/08/14(Mon) 12:34:49)
| 2023/08/14(Mon) 20:20:37 編集(投稿者)
こんにちは、pipitさん。横レス失礼します。
■No32466に返信(pipitさんの記事) > (英訳のpipit日訳) > 毎月毎月、愚か者が草の葉の先端から食べ物を食べたとしても、 > この教えを理解した者の16分の1の価値もない。
> ------------------ > (pipit感想) > 前半の文章は、一月に草の葉の先端に乗る程度の食べ物しか召し上がらない断食系苦行者のことを表現されてるのかなぁ > (・・;) > 「16分の1」という表現が何処からくるのかなぁ(釈尊の実感?執筆者の実感?はたまた違う由来?)とおもしろく感じました。
田秋さんも指摘されている通り、古代インドでは十六分の一の数字が多用されます。 pipitさんが引用された部分は、おそらく以下の初期ウパニシャッド(釈尊生誕以前のBC800年頃)『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド6・7』にある「十六分の一の部分によってヴェーダを思い出す」からきているのだと思います。
**** 以下『中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想』よりの引用 ****
一、〔父がいった。〕「愛児よ。人間は十六の部分からなるのだ。十五日間は、食物を食べてはならぬ。しかし、欲するままに水を飲め、気息(呼吸)は水からなるものであるから、水を飲む者の気息は絶えないであろう」と。 二、そこで、かれは十五日間断食した。そののち、かれは父の側にすわった。 〔子がいった、〕「ああ、なにをいいましょうか」と。 〔父がいった、〕「愛児よ。讃歌、祭詞、旋律を唱えてみよ」と。 子は答えた、「わたくしには、なにも思い浮かびません」と。 三、〔父〕はかれにいった、「愛児よ。さかんに燃えたつ火のなかに蛍火ほどのひとつの炭火が残っていても、その炭火によってそこからふたたび火がさかんに燃えあがらないように、そのように、愛児よ。おまえの十六の部分のうちのひとつだけが残っていても、それによって、おまえはヴェーダを思い出すことはないのだ。さあ、食べなさい。そのあとで、わたくしの〔説くところ〕から理解せよ」と。 四、かれ(シヴェータケートゥ)は食事をした。そして、父の側にすわった。父がかれになにを問うても、かれはすべてを答えることができた。 五、〔父は〕かれにいった。「愛児よ。さかんに燃えたつ火のなかに残された蛍火ほどのひとつの炭火でも、草をくべて燃えたたすならば、それによってそれからふたたび火がさかんに燃えあがるように、 六、そのように愛児よ。おまえの十六の部分のうちひとつだけが残っていたが、それは食物をつぎたされて(=かきたてられて)、燃えあがったのだ。それ(十六分の一の部分)によって、おまえはヴェーダを思い出したのである。なぜならば、愛児よ。じつに意(こころ)は食物からなり、気息(呼吸)は水からなり、ことばは熱からなっているからである」と。 このことを、かれは父から教えられて理解することができた。
*************** 引用終わり ***************
上記以外にも『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』には「ブラフマンの十六分の一は東の方角である。その十六分の一は西の方角である。その十六分の一は南の方角である。その十六分の一は北の方角である。若き子よ。じつにブラフマンの〈四分の一〉は〈十六分の一〉」の四つよりなるものであって、『光輝あるもの』という名である。(牡牛の教え)」、「ブラフマンの十六分の一は地である。その十六分の一は虚空である。その十六分の一は天である。その十六分の一は大海である。若き子よ。じつにブラフマンの〈四分の一〉は〈十六分の一〉」の四つよりなるものであって、『無限なるもの』という名である。(火の教え)」、「ブラフマンの十六分の一は火である。その十六分の一は太陽である。その十六分の一は月である。その十六分の一は電光である。若き子よ。じつにブラフマンの〈四分の一〉は〈十六分の一〉」の四つよりなるものであって、『光明あるもの』という名である。(白鳥の教え)」、「ブラフマンの十六分の一は嗅覚である。その十六分の一は眼である。その十六分の一は耳である。その十六分の一は意である。若き子よ。じつにブラフマンの〈四分の一〉は〈十六分の一〉」の四つよりなるものであって、『よりどころのあるもの』という名である。(潜水鳥の教え)」等々ブラフマンを表現する数字として用いられています。
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